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『海里、最近大丈夫?』
突然そんなことをいわれたのはいつものように酔っぱらったまま夜中に電話で話をしていた時で、僕は最初意味が分からずに「何が?」と聞き返してしまった。『いやほら、電話が多いから』とそいつはいった。
「え? あ――もしかして電話しすぎ? ごめん、もう切る」
相手はふるいつきあいの友達だ。僕がゲイだと知っていて、ずっと友達でいるいいやつ。社会人になって何年もたち、住む場所が離れても、年に一度か二度会って飯を食ったりするし、こうやって電話でも話す。
『いやいや、そうじゃなくて』そいつも多少あわてたような声になった。
『電話かけてくるときかなり酔ってるだろ? いつも家で飲んでんの?』
「ああ、うん……ただひとりで飲んでないから」
僕はローテーブルの上をみまわす。空き瓶と空き缶が並んでいるなか、朝鷹はいつもの場所に立っている。
「飲み仲間がいるんだ」
『へえ。じゃあ次の時は一緒に会おうよ』
「うん。今度つれていく」
酔って回りにくくなった舌で僕はこたえた。通話を切った後で、すこし早まったかもしれない、と思った。
*
朝鷹を手に入れたのはしこたま酔ったある晩のことだ。
なにしろしこたま酔っていたから詳細は覚えていない。ぼんやり覚えているのはとあるショッピングモールの中のファミレスで生ビールとワインを飲んで、トイレに行って出たところで朝鷹が出てきたガシャポンに出くわしたことだけだ。ああ、もうひとつ、僕の手の中になぜかガシャポン専用コインがあったことも覚えている。そのあとの記憶はない。
僕はコインをスロットに入れ、ハンドルをぐるっと回した――にちがいない。なにしろしこたま酔っていたのだ。
僕が朝鷹と本当の意味で出会ったのはその翌日のことだった。あれはまさに出会いだった。二日酔いの頭痛がやっとおさまった日曜の午後、のそのそとベッドから起き上がって、足を床についたときだ。
「痛ッ」
僕は叫んだ。いったい何を踏んだのか。足元をのぞきこむとヒビが入ったガシャポンのカプセルの横に、彼がいた。
なんだこれ。このフィギュア――
僕は小さなプラスチックをつまんでみつめた、その瞬間のことである。僕の頭に、すっかり忘れていた記憶がぶわあああっっと湧き上がったのは。
こ、これは――『あやかしビードロ団』じゃないか!
『あやかしビードロ団』は小学生のころ僕が大好きだったマンガだ。人間に隠れて暮らすあやかしたちが、人間に代わっていさかいを調停し、悪を追いつめるアクションヒーローものだ。大ヒットしたわけではないし、同級生にもあまり知られていなかったが、僕は大好きだった。戦うシーンを何度も繰り返し読んで、ノートの隅に絵を描きもした。キャラの絵まで描こうとしたマンガはあれだけだった。
僕はもういちどフィギュアをみつめ、ひたいに傷跡があるのをたしかめた。束ねられた長い髪もちらりとみえる割れた腹筋も――そうだ、やっぱり彼こそは僕のイチオシキャラ、朝鷹だ。主人公の薬子の補佐役で、一見優しそうだが敵にむかうとめちゃくちゃ冷酷でめちゃくちゃ怖い、最大の味方で最強のお兄さん!
いまどきのガシャポンはこんなに昔のマンガもフィギュアにしてしまうのか。素直に感心して僕は朝鷹をテーブルに置いた。フィギュアとなった朝鷹の身長は5センチ弱、両脚の幅はペットボトルの蓋にのるくらい、胸の厚い逆三体形で切れ長の眸のイケメンである。薄茶の長髪が顔を斜めに流れ、肩のところでひとつに結ばれて、ひたいの端には短い刀傷がはしっている。緑を基調にしたコスチュームの上着は詰襟の学生服のような見た目だが、短めの裾が割れたところから割れた腹筋がのぞいていた。下半身は袴のようなロングスカートのような、謎の構造の衣装に覆われている。
その様子は今年二十七歳になろうとする僕の目でみても、十分かっこよかった。つまり自分の趣味は小学生のころから変わってないってことだ。
で、そう自覚したとたん僕は声に出してつぶやいていた。
「あーあ……朝鷹みたいな……いい男とつきあいたい……」
われながら馬鹿らしい。口に出すなよ、そんなこと。
そんなことを自覚したが最後、やってくるのは怒涛の後悔だ。二日酔いで忘れたつもりになっていたのに、たちまち昨夜の後悔と怒りと悔しさと恥ずかしさと泣きたい気分がリピートした。あーあ。朝鷹なら別れ話を切り出すときも、人の好意を踏みにじるようなことはしないだろう。今になって「ほんとはつきあうつもりじゃなかった」なんて絶対いわない。逆だ。朝鷹はそんなふうに逃げにかかるやつらをぶっとばしてくれるはずだ。
僕だって、あやかしビードロ団に助けられたいのに。
でも『あやかしビードロ団』は少年マンガだ。男にフラれてがっかりする男を助けてはくれない。いやどんなアクションヒーローものだって、男にフラれてがっかりする男を助けてはくれない。SNSでそんなことをつぶやいたって、誰もなぐさめてなんかくれないのだ。この世にヒーローなんて存在しない。人生はこれを学習する機会に事欠かず、しかも勘ちがいしたやつらから「自分が誰かのヒーローになれ」とお説教されたりするのが関の山だ。ポジティブシンキングもマインドフルネスもくそくらえだ! 僕はカタカナが嫌いだ!
僕はいさましく冷蔵庫にむかった。二日酔いもおさまったし、気を取り直して飲みなおそうと思ったのだ。ローテーブルにはかっこよくポーズをきめた朝鷹が立っている。僕は発泡酒をとりだし、彼にみつめられながらプルタブを引いた。
こうして朝鷹は僕の晩酌につきあうようになったのだ。一年前のことである。
*
ひょっとしたら最近の僕はすこし飲みすぎているのかもしれない。
いや、すこし飲みすぎているなんてそもそもおかしい。飲みすぎは飲みすぎだ。すこしじゃないから飲みすぎなのだ。
でもなぁ。あまり楽しいことのない会社がやっと終わって、帰り道にコンビニに寄ったら横入りした爺さんにレジ待ちの順番を飛ばされ、外に出たとたん強風で倒れた自転車のサドルに足首をグキッとやられたりなんてことがあった日には、頭の中に残るのが「一口飲みたい」の大合唱だけになるのはしかたないんじゃないだろうか? 誰ともつきあってないし、その気力もないし、毎日友達に愚痴をこぼすわけにもいかない。一口飲むだけで嫌な気分が薄れるのなら安いものだ。
で、僕はアパートの部屋に帰って靴を脱ぐ。最初の缶をあけてしまえばもちろん一口では終わらない。酔いがまわると陽気な気分になってきて、ネットの動画やSNSを眺めて笑ったりひとりごとをいったりする。狭いアパートに椅子はなく、僕はベッドに腰をおろしてローテーブルにコップとボトルを並べている。テーブルの上にはいつも朝鷹がいるから、僕の言葉はだんだん、ひとりごとじゃなくなる。いつのまにか朝鷹に話しかけているのだ。
アルコールでぼうっとした頭でみつめると、朝鷹はとても表情ゆたかだ。僕の話にうなずいたり、逆にそれはどうかな、という顔つきになったり。
「それはどうかな」というのは『あやかしビードロ団』で朝鷹が主人公に話しかけるときの口癖だ。このときひたいの傷がちょっと下がる。フィギュアの傷が動くわけはないのだが、酔っている時はそんな気がする。
しかしなんでいまさら『あやかしビードロ団』のフィギュアがガシャポンに? あのマンガを僕が熱心に追いかけていたのは小学生のあいだだけだった。中学にあがったあとは家や学校でいろいろあって、それどころではなくなって、そのまま忘れてしまっていた。
ある晩、酔っぱらった勢いのままネットで検索すると、意外なことがわかった。僕が中学生になったころ『あやかしビードロ団』はアニメ化企画が進行していた。ところが制作会社に不祥事が起き、イメージビジュアルまで公開されたにもかかわらず、アニメ化は途中で立ち消え。直後に作者が病気で休筆し、一年後に亡くなってしまったというのだ。子供のころ『あやかしビードロ団』を連載していた雑誌も廃刊になっていて、コミックスも僕が読んだところで打ち切られている。主人公の薬子が謎を解き、ラスボスの居場所をつきとめたところで終わっているのだ。
こんな状況でどうしてガシャポンのフィギュアが作られるのか。僕は不思議に思ったが、朝鷹は現にここにあるので、それ以上のことは気にしなかった。
で、今も僕は酔っている。やっと家に帰って、じぶんひとりしかいない安全な場所に閉じこもって、心の底からほっとしているところだ。テーブルの上の朝鷹がいきなり動き出してもなんとも思わなかったのはそのせいだ。
朝鷹はワインが半分入ったガラスコップに向かってトコトコと歩いていき、側面に片手をあてて肘をのばした。肩と背中をコキコキっとひねって、僕の方へ首を曲げ、もう片方の手を振る。
ああ、ついに動いたな。
僕は朝鷹がコップにもたれて両腕を組むのをじいっとみていた。酔いが回っているといっても、ふだんの酒量を思えばまだそれほど飲んでいない。テーブルの上にはワインのボトルの隣に発泡酒の空き缶(350)がひとつあるだけだ。ワインだってまだ二杯目。頭はふわっと浮き上がったように気分がいいけれど、僕の基準ではまだ酔っぱらうまでいってない。夜ははじまったばかり、まだまだこれからのはず。
ただ、朝鷹がああやってコップにもたれていると、ワインに手をのばしづらい。
僕はそうっと朝鷹に顔を近づけた。
「あのさ、ちょっとどいてくんない? 飲みたいんだけど」
「海里、飲みすぎじゃないか?」
予想に反して返事がかえってきた。
僕が想像したとおりの声で、しかも名前まで呼ばれた。
「なんで僕の名前わかるの」
「私はあやかしビードロ団だぞ」
そうかぁ。僕はあっさり納得した。たしかあやかしビードロ団は、ビードロの響きにのせて妖術を使い、人間のことを知るのだったっけ。
「海里。今日はもう控えないか」
朝鷹の声はとても小さかったが、僕はコップに耳をくっつけるような勢いで顔をかがめ、どうにか聴きとろうとした。
「このくらいって、何を?」
「飲みすぎだ。もうやめとけ」
「そんなことない」
僕はワインの瓶を指さす。
「まだ半分残ってるんだ。置いておくとまずくなる」
朝鷹はくすっと笑った。「本当に味がわかっていってるのか?」
それはちょっとばかり耳に痛い話だった。酒の味なんてほんとはちっともわかってはいない。飲みやすい酒とそうでない酒があるだけだ。それでも僕は大きくうなずいた。
「ああ。今日はまだそんなに飲んでない」
朝鷹は顎に手をかけ、僕を見上げながら考えこむようなそぶりをする。僕はかまわず話しつづけた。
「朝鷹が喋れるなんて思わなかった。なあ、もっと大きくなれない?」
「なぜ?」
「声が小さいんだ。僕と同じ大きさだったらもっとちゃんと話せるのに」
「なるほど」朝鷹は腕を組みなおした。「こうか?」
顔のすぐ前で風船が弾けるような音が鳴った。僕は反射的に目を閉じて、またひらく。目の前に朝鷹が立っていた。フィギュアではない、等身大の生身のすがたで。
さすがの僕の脳みそもこれはすこしおかしいと思った。
「待って! ちょっと待って! 今なにが」
「同じ大きさがいいといったじゃないか」
朝鷹は僕の抵抗を意に介さない。ずいっと僕の隣、つまりベッドに腰をおろされて、心臓がびくんと跳ねた。どうしてかって? 等身大の人間になった朝鷹が予想をはるかに超えたイケメンだったからだ。真正面からみると胸の奥が痛くなってくる。ああもう、何が起きているんだ。
僕はあわててコップをつかんだ。中身をぜんぶ飲み干すとすこしだけ落ちついて、もう一度朝鷹の顔をみても大丈夫になった。いや、大丈夫どころか気分がぐんと上がった。
「あ、あの、朝鷹も飲む?」
「海里」
耳元でささやかれた朝鷹ボイスはこれまた僕の好みド直球、それだけでなく途方もなくセクシーで、しかも朝鷹はなぜか両手で僕の腰をつかんでいる。いきなりのアクションに僕は驚き、コップを落としそうになったけれども、朝鷹はすかさず片手をのばしてコップを取り上げてしまった。僕は朝鷹の胸に抱かれたような姿勢で、伸ばした手首まで掴まれてしまう。
「控えないかといっただろう?」
「で、でも……」
「今日はもう終わりだ」
朝鷹の腕がぎゅっと僕を抱きしめた。実物大の朝鷹にはたしかな人肌のぬくもりがあって、そのあたたかさに包まれるといろいろなことがどうでもよくなった。きっと酔っているせいにちがいない。いつのまにか僕は朝鷹とキスをしていて、唇が離れると、今度は朝鷹の衣装がどうなっているのか一生懸命さぐっていた。すると朝鷹の手が僕のシャツの下に入ってきて、胸のところをぐりぐり触る。
ああ、これは夢だ。僕はもう確信していた。僕って朝鷹とこんなことをしたかったのか。
「あ、朝鷹……あっん……そんなとこ……」
「先に手を出したのは海里だろう。あんなところをのぞきたがって」
「だ、だってそれは……前から不思議だったからぁっ」
「私のここがどうなっているか?」
僕はベッドの上に押し倒された。朝鷹の指が僕の胸をぐりぐり弄り、下半身がぴったり重なって、擦れた。僕ははしたないくらい息を荒くしていた。耳たぶを朝鷹の舌がたどって、そんなことをされていると考えるだけでも気持ちがいいのに、いつのまにか朝鷹の服――袴なのかスカートなのかはっきりしない服――からは立派なモノがにゅっと頭を出している。器用な手が動いて僕のズボンを下げた。
「それなら私にもみせてくれないとだめだな。海里のここが……」
朝鷹は僕が想像したより意地悪でテクニシャンで、僕は誰かとエッチするのは一年ぶりだ。夢ならもうなんでもいいや。僕は朝鷹のするままになる。長い指が手慣れた様子で僕の尻をほぐして、シリコンかローションでも使ったみたいに股間が濡れる。僕は足を広げて朝鷹を待ちかまえ、朝鷹は焦らすようにゆっくり服を脱いで、僕の上にかぶさってくる。中に入ってきたモノにいいところを何度もえぐられて、僕の語彙力が完全に昇天する。
「あさたか……朝鷹すきっ……好き……」
何度もそう叫ぶと朝鷹はぎゅっと僕の腰をつかみ、もっと奥までえぐってきた。そのたびに頭の隅がチカチカと白くまたたく。のしかかった朝鷹の口から「ああ……」と声が漏れるまでパンッパンッと何度も打ちつけられる。やっと動きをとめた朝鷹が僕の髪を何度も撫でる。じんわりした幸福感に満たされて、僕はいつのまにか眠ってしまった。
ぜんぶ、ただの夢だ。
目が覚めた瞬間はたしかにそう思えた。しかし起きあがったとたん僕は確信が持てなくなった。体は二日酔いではなく、エッチのあと特有のだるさを残していたし、シーツはすこし汚れていた。
オナニー……いやアナニーの夢にしてはリアルすぎる。僕はすこし怖くなった。酔っぱらった時にこんな真似をしたことなんて、これまであっただろうか?
ローテーブルには朝鷹が立っていた。等身大ではない、フィギュアの朝鷹だ。
僕はそっと朝鷹をつまみあげ、何気なく腕を動かして、次にぎゃっと声をあげた。一体成型だったはずの衣装が可動式になっている。今は上半身も下半身も脱がせることができた。
どうしてこんな? それとも前からこんな仕様だったのに、僕は気づいていなかったのか?
どこかでアラームがビリリリリリ! と鳴り響いた。僕はフィギュアを片手に握りしめたまま目覚ましをさがし、けたたましい音をいそいで止めた。シャワーを浴びて電車に乗ったあとも、ほんとに誰かとエッチしたみたいに体がだるかった。
その日の僕はいつもにもまして黙々と働き、昼休みはいつものように弁当を買いに出た。昼どきになると弁当を売る車が近くの通りに並ぶのだ。ロコモコ弁当を買って公園に行き、いつもとおなじベンチに座る。膝の上で弁当を広げたとき、公園を歩く人影が目に入った。
最初女性だと思ったのはその人の髪が長かったからで、こちらを向いた体つきですぐに男だとわかった。こっちへ歩いてくるその顔をみて、僕はあやうく弁当を落とすところだった。ひたいに傷がみえたような気がしたからだ。
やっぱり僕は飲みすぎかもしれない。
もっとも、そんな風に反省したのもその日いちにちだけだった。
つまりその日の夜こそ、僕は酒を飲まなかったが(会社が終わると疲労困憊で眠すぎたからというのもある)翌日の僕は平常運転で晩酌をはじめていた。朝鷹もいつもの通りローテーブルの上にいる。
ただ今日はどうも、いつもより酔うのが早いみたいだ。発泡酒を半分あけただけなのに僕の頭の中はふわふわした酩酊の霧に覆われはじめた。きっといきなり飲むからだ。何か食べてから飲むべきなんだろう。でも、まず飲まないと食べる気がおきず、飲み始めると食べるのがどうでもよくなる、という問題があって――
「昼はちゃんと食べているんだな。いいことだ」
いきなり朝鷹が喋った。僕はぎょっとして、こわごわフィギュアをみつめた。
僕はほんとうに幻覚をみるようになったんだろうか。
「朝鷹……ほ……ほんとに喋ってる?」
「それはどうかな」
朝鷹が動いた。発泡酒の缶にぴょんと飛び乗ったから、僕は出しかけていた手をあわててひっこめる。
「あやかしビードロ団が存在するといっても、人間は信じないだろう」
「そりゃ……あれはマンガじゃないか。それも途中で終わった……」
そこまで口に出したあとで、僕はふと思いついた。この一年のあいだ、思いつきもしなかった疑問だ。
「朝鷹、あのあとどうなったんだ? 薬子が最後の敵の居場所をつきとめたあと。最後の敵は倒せたのか?」
朝鷹は缶の上にあぐらをかいていた。僕を見上げて腕を組む。
「それはどうかな。私たちにもわからない。いまは箱舟に乗っているから」
「箱舟?」
「私たちのようなものがたくさんいる場所だ」
僕は顔をそっと近づけ、フィギュアの眉が寄るのをしっかり確認した。朝鷹の声は小さくて、必死で耳を澄まさなければきこえない。
「たくさんの未完の物語がある。望まれていたのに、描き上げられるはずだったのに、不慮の出来事により顕現できなかったものたちがいる。行きつく場所を知らないものたちだ。みんな箱舟に乗っている。この世界の斜め上に浮いている、大きな船に」
「斜め上……」
「たまに船は座礁して、この世に続く穴が開く。ほんとうに自分を推す人間がいれば、この世に顕現できるんだが……」
朝鷹の声がだんだん遠くなっていった。僕はどうしてこんなに酔っぱらっているんだろう。ほとんど飲んでいないはずなのに、眠くてたまらない。
ブーッブーッ。アラームが鳴っている。ちがう、電話だ。僕は床に転がりおちていた。あわててスマホをとったら、相手はいつもの友達だ。
『あー、やっと出た。生きてる?』
「あ、うん」
僕はもごもごと返事をしつつ、時刻をみてぎょっとする。
へ、昼の二時?
『急で悪いけど、用事があって近くまで来てるんだ。どこか行かないか』
「うん、いいよ」
部屋の中は何も変わりがない。ローテーブルの上には発泡酒の缶が置きっぱなしだ。プルタブは上がっているのに持ち上げると重い。他にもおかしなことがある。
『で……それがさ、実は知りあいも一緒なんだ。連れてっていいかな』
僕は朝鷹をさがしていた。テーブルの上にいないのだ。膝をついて床に目をこらしても、みつからない。
『海里?』
僕はうわの空で返事をした。
「悪い、家の中が散らかりすぎてて。いいよ。店も好きなところで」
『海里の飲み友達もつれてきていいぜ。前にいってたろ?』
「それは……今日は無理かも」
僕はベッドの下をのぞきこむ。いったいどこへ行ったんだ。
『そっか。だったらまあ……一緒に行くやつ、朝鷹っていうんだけど、なんとなく海里と気が合いそうな気がするよ。場所決めたらメールする』
え? いまなんて――
聞き返そうと思った時はもう電話は切れていた。朝鷹のフィギュアはやっぱりみつからない。
僕はたちあがって膝についた埃を払った。
部屋の中にはすえたような臭いがこもっていた。そういえばしばらく窓を開けていない。
僕は残った発泡酒とワインのボトルをミニキッチンに持っていった。発泡酒の缶をさかさにして流しにあけ、缶が空になってもしばらくそのまま立っていた。それからワインのコルク栓をとって、その中身も全部流しにあけた。
換気扇のスイッチを入れて部屋の窓を全開にすると、アルコール臭が外の空気と入れ替わるのがわかった。風はあたたかく、草のような匂いがした。春の風だと思った。
(おわり)
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