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その日俺の冷蔵庫の裏側をみた電気屋はふりかえるなり冷たい声でいった。
「これは無理ですね」
第一声からこうだとは思っていなかったので、俺の反応は「え?」という、馬鹿みたいな問い返しだった。
「無理って」
「修理です。ずいぶん古い製品ですね。これだけ保ったのはすごいですよ。日本製でもないのに」
「だけどそちらは海外の家電でも直せるって話だったじゃないですか」
「修理可能なものは直せます。でもこれは寿命です。あきらめてください」
「そんな……昨日の朝までは元気だったんです。中古で買ったし音も大きかったけど、何年もちゃんと動いて……」
あとで思うと「元気だった」なんて変ないい方をしたものだ。電気屋は憐れむような目つきで俺を見た。
「ご愁傷様です」
出張代だけでけっこうですといわれたので俺は三千円と消費税を払った。領収書を受け取って電気屋が出ていくと、俺は静かな台所に取り残された。昨日の朝まで、この台所にはいつも小さな音が響いていた。冷蔵庫がブーンとかゴゴゴゴ……といった作動音を響かせていたのだ。でも今はただの沈黙があるのみ。
俺は電気屋が抜いた電源をまたつなぎ、冷蔵庫の水色の扉に手をかけた。こんなのすべて気のせいで、ひらいた瞬間に明かりがついて、ブーンと音がするんじゃないかと根拠のない期待を持ちながら。何も起きなかった。冷蔵庫は静かで、暗くて、中は空っぽだった――中身は昨日俺が片づけたのだから、当然だった。
家電が壊れたくらいなんだ。ふつうの人間ならそういうにちがいない。いや、冷蔵庫が壊れるなんて災難だね、くらいの言葉ならかけてくれるかもしれない。でも冷蔵庫なんて家電量販店へ行けばたくさん売っているわけで、大の男が大騒ぎすることだなんてふつうは思われないはずだ。俺だってそんなことはわかっている。
でもこの冷蔵庫は、就職してこのかた俺に連れ添ってきた嫁のような存在で、楽しい時も辛い時もひとり暮らしの俺の台所でブーンと唸っていたので、俺は嫁を失ったような気持ちだったのである。
俺は自分の部屋が好きだ。
そしてインテリアにはかなり凝るほうだった。
俺は横文字のお洒落な仕事やらクリエイティブな仕事やらには縁のない、ただのサラリーマンである。でも大学の頃からアメリカやヨーロッパのヴィンテージデザインが好きだった。だから親元を離れて一人暮らしをはじめてからは、自分の好きなデザインの家具や家電をひとつひとつ買い揃えていった。
就職して独立したら自分の好きなものに囲まれて暮らせる、と思って、大学のころはバイトをがんばったものである。住んでいるのは細長い1LDKだが、玄関を入ってすぐの台所に存在感のある冷蔵庫が鎮座している。就職して最初のボーナスで買った、復刻ヴィンテージデザインの海外メーカー製のものだった。
それでも電圧などは日本仕様で、中古ではあったがそれほど使われた形跡もなく、動作確認もして手に入れたのである。スリムな角形をうたう日本の冷蔵庫よりずんぐりして丸みを帯びたフォルムは美しく可愛らしく、俺は完全に惚れこんでいた。色は艶のある水色で、クロームメッキの縁取りがあり、把手は黒くてすこしごつい雰囲気で、絶妙なバランスだった。
ツードア式で、上の大きい扉が冷蔵室、下の引き出しは冷凍室だ。上の扉をひらくと黄色い明かりが灯って、庫内が明るく照らされる。俺の目線の棚では食材たちが待ちかまえている。扉をあけるのが朝だったなら俺は思わず「おはよう」といってしまったものだったし、夜なら「ただいま」といったものだった。
扉をあけるたびに、劇場の幕があがるときのようなうきうきした気持ちになった。整理整頓は嫌いじゃないから、冷蔵庫の中はしょっちゅう片づけて、醤油や食べ物や野菜の屑なんかで汚さないようにしていた。外側もきれいに拭きあげて、いつもピカピカに保っていた。毎日の自炊生活では第一にして最高のパートナーだった。うなぎの寝床みたいな1LDKの端っこに置いたベッドからも冷蔵庫はみえた。まるで俺を見守ってくれているみたいに。
その冷蔵庫が逝ってしまったのである。
今が真冬でよかった。二月の東京は連日冷蔵室なみの気温である。俺はベランダの日陰に一時避難させた調味料と食材をとりにいった。シンクの前に立って、カレーか肉じゃがでも作ろうかと思ったが、玉ねぎを刻みはじめたとたん、いつも聞こえていた音がないのに気づいて泣きそうになってしまった。泣きそうになったのは玉ねぎのせいにちがいない。でも俺はさびしかった。
思い返すに、俺の冷蔵庫は平均よりも大きな音を発していたのだろう。おかげで台所に立つとき、俺はいつもひとりでいる気がしなかった。自炊はけっこう好きな方だ。得意といえるようなものではない。でも、自分のための食べ物を作るときは他人のことを気にせずに、自分がうまいと思うものを試せるし、失敗しても気にしなくていいのが好きだった。昼間会社で思い通りにいかないことがあっても、皮をむいたじゃがいもが白くて綺麗とか、肉じゃががほくほく煮えたとか思っていれば、不思議とどうでもよくなるものである。
そんな俺の横にはいつもこの冷蔵庫がいた。棚の上や奥を冷やしすぎるとか、不便なところもないわけじゃなかったが、俺はほんとうにこの冷蔵庫を愛していたのだ。
ネットで調べると、冷蔵庫を買った店は二年前に閉店していた。おまえのような冷蔵庫にこのあと出会えるだろうか。そんなことを思って、俺はその晩よく眠れなかった。
次の日の昼休み、同僚の浅野に「高橋さん、今日元気ないですね」といわれた。
「え、そう見えますか」
浅野は銀紙をまるめながら「なんとなくそんな気がしたので」という。
浅野は俺が昨年いまの会社に入社したときから同じチームにいる、眼鏡をかけた頭の良さそうな男だ。同期入社のあいだでもいちばんデキるやつとみなされているようだし、多少パワハラの気がある面倒な上司の扱いもうまい。チーム長は彼をこっそり「猛獣使い」と呼んでいる。もちろん誉め言葉だ。
その浅野は最近、昼休みに昼食から戻ってきたあと必ず板チョコを食べている。その辺で売っている超定番板チョコだが、眼鏡をかけた頭の良さそうな男が小学生みたいに銀紙をむいている様子が何となく面白かったので、俺はちょっと気になっていた。しかし向こうが俺の様子を気遣ってくれたのには驚いた。
「実は冷蔵庫が壊れたんです」
「ええ、大変じゃないですか。それで元気なかったんですか」
「あ、うん。そうなんです」
「中に入ってたもの、どうしてるんですか?」
「調味料と野菜は二月だからベランダの日陰においてます。今の気温、5℃とかだし」
「夏じゃなくてよかったですね。でも不便でしょう? 早く買いにいかないと」
「そうなんですけど、ただその、」
自分が気に入るものをみつける自信がなくて、と俺は続けたかったのだが、冷蔵庫にそんなにこだわっていると思われるのも変じゃないかという考えが働いて、言葉が途切れた。すると浅野がいった。
「帰りに電気屋、つきあいましょうか。俺こうみえてけっこう、家電マニアなんですよ。電気屋めぐりが好きなんです。◎◎駅東口の×××なら白物家電の担当に知り合いがいますし、あ、西口の▲▲▲にも」
「え、でもそんな、悪いし」
「そんなことないですよ。高橋さんも同じ駅でしょう? いくら冬でも冷蔵庫ってないと困るっていうか、安心できないじゃないですか」
たしかにその通りだった。生鮮品の命運が保冷剤と冬の寒空に任されているというのは安心感に欠けることだった。それでも同僚と電気屋に行くのはなんだか変な気もしたのだが、結局その日、仕事が終わったあとで、俺は浅野と×××へ行った。
そして、大失敗をした。
浅野はたしかに家電に詳しかったし、店員は俺に、つまり男の単身一人暮らしでそこそこ自炊をする人間にふさわしい製品を勧めてくれた。ちょうど型番落ちになるところでお買い得の品もあった。ふつうならさっさと買ったと思う。今日明日の金に困っているわけでもないのだ。
しかし俺にとって、その売り場はまるで砂漠のようだった。並んでいるのはマンションのキッチンの隙間にぴったり入る無個性な色と形のものばかりで、どれもこれも同じにみえた。そしてみればみるほど、亡くしたばかりの俺の冷蔵庫が恋しく思えて仕方ないのだ。
「これしかないんですか」気がつくと俺は店員につめよっていた。
「もっと違う色とか形とか」
「前はどのメーカーをお使いに?」
「●●●社の復刻ヴィンテージデザインのXXXX-**で」
「……あいにくそちらは取り扱いがないですね……取り寄せもちょっと……」
店員はあきらかに俺の剣幕に押されていて、俺はハッと我に返った。
「あ、いやその、すみません。いいです。出直します」
浅野が俺に何かいったようだが、俺はものすごく恥ずかしくなっていた。なんというか、特殊なオタクぶりを同僚にさらしてしまったことが、である。というわけで逃げるように「もう帰るから」とかなんとかいって、電気屋のエスカレーターを駆け下りた。
家に帰ると壊れた冷蔵庫が静かに立っていた。俺はみじめな気分でレトルトの牛丼を温めて食べた。寝るときも、ベッドから冷蔵庫の形がみえた。電源が入らなくても食器棚にでもすればいい、俺はそんなことも考えてみたが、いろいろなことが辛くなって、眠ってしまった。
翌日、俺は浅野の顔をみるのがすこし気まずかった。
もっとも浅野はいつもとおなじように挨拶をしたから、俺も何もなかったように挨拶をかえして、いつもと同じように仕事をした。しかし今日は昼食のあと、いつもとちがって会社近くのコンビニから板チョコを片手に出てくる浅野に出くわしたのである。
すこし迷ったが、俺は意を決して話しかけた。
「昨日はすみませんでした」
「昨日?」浅野は眉をあげた。
「つきあってもらったのになんか、変な感じになって……」
俺はもごもごといったのだが、浅野は目尻をさげて困ったような表情になった。
「まさか。こっちこそ、高橋さんのタイプの冷蔵庫がなくて、すみませんでした」
「浅野さんが謝ることじゃないでしょう」
「いや、押しつけになっていたなと思って。高橋さんって持ち物にこだわりが強い人ですよね。わかっていたのにおせっかいなことしたなと思いましたよ。すみません」
「え、その……」
自分が持ち物にこだわりが強いなんて、話したことがあったか?
とまどったせいか俺は目をぱちぱちさせて「コーヒーでも飲みませんか?」といってしまった。浅野は眼鏡の奥の眸をパチッとさせて「いいですね!」と即答した。
「屋上、行きませんか」
会社の最上階には自販機があり、扉のむこうの屋上部分にはベンチが置いてある。以前は喫煙所だったが今は消防署の指導でただの休憩所になってしまった。春や秋は人もいるのだが、真冬の今は誰もいない。
「よかったら缶コーヒーとか……昨日の礼というか詫びというか」
俺は自販機の前でいった。
「いや、そんな」と浅野がいった。
「でも昨日はその、大人げなかったし、このくらい」
「……じゃあそのブラックのを」
ごとん、と音を立てて出てきた缶コーヒーを浅野に渡すと、彼は扉をあけて屋上へ出ようとする。てっきりオフィスに戻ると思っていたから、俺は自分のカフェオレを持ったまま、あわてて浅野のあとについて屋上に出た。屋上は寒かった。それでも浅野はベンチにすわり、缶コーヒーの蓋をねじってあけて、それから板チョコの銀紙をむきはじめた。
「板チョコよく食べてますね」思わず俺はいった。「好きなんですか?」
「1月の終わりからコンビニがバレンタインキャンペーンやってて、板チョコが安いんです。それでデザート代わりにしてます」
「ああ……バレンタインか」
そうか。そんな季節だった。この季節になるといつものスーパーにも製菓用チョコレートだのチョコレートケーキの型だのがならぶのだ。
「興味なさそうですね」と浅野がいった。
「ええ、ないですね」
「でも、ちょっとは期待したりとかないんですか?」
そういいながら浅野は長い指で板チョコをパリッと割って、口に入れた。さまになってるな、と俺は思った。俺は他人の顔の造作にあまり興味がもてなかったので、浅野の外見についても、眼鏡が似合って頭が良さそうだくらいのことしか考えたことがなかったのだが、いま足を組んでベンチに座っている浅野はずいぶん格好がよかった。インテリア雑誌のグラビアに載ってもよさそうな雰囲気だった。
「チョコレートもらえるかもって?」と俺は聞き返し、あまり考えもせず「別に……チョコ貰いたいとか、うらやましいとか思ったことは、ないですね」と答えた。
「チョコレートが嫌いなんですか?」
「チョコレートは好きな方ですよ。チョコレートケーキも作ったことあるし……」
「それは奥さん向けにとか?」
「まさか、俺は独身ですよ。っていうかそういう人いないんで……ただ俺の冷蔵庫ではその……いろいろ冷やしてみたかったし」
浅野は眼鏡の奥でまばたきした。
「冷蔵庫」
「あ、その、あれなんです、壊れた冷蔵庫が嫁みたいな感じだったんで」
「そんなによかったですか」
「よかったっていうか、その、迎えてくれるみたいな感じがあって」
「迎え」
「扉をひらくとね、明るくなるし、なんというか、あったかい気分に」
「相手は冷蔵庫ですよ。冷たいでしょう」
「冷たいからいいんです。冷蔵庫なんだから」
「それはたしかに……そうですね」
「夏は涼しくていいし、冬も冷たいのがいい」
「俺、高橋さんが昨日話していたメーカー、調べたんですよ」
浅野は急に、俺をさえぎるようにいった。
「レトロ家電好きだとは知らなかったんで、悪いことしたと思いました。よかったらまたつきあいますよ。一応レトロ家電おいてる電気屋も知ってるんです。そのメーカーはないかもしれませんけど」
「い、いやその」
「高橋さんってうちの会社来たときから雰囲気ある人だと思ってましたけど、そういうこだわりが違ったんですね」
浅野の口から誉め言葉のようなせりふが飛び出して、俺はびっくりした。
「え? いやそんな、単に変な……こだわりをもってるだけで……よく考えると俺、変ですよね。冷蔵庫を嫁みたいに思ってるなんて……」
「変じゃないです」浅野はきっぱりいった。
「二次元キャラだけでいいって人間もたくさんいる時代なんですよ。冷蔵庫は三次元です」
「そういう問題ですかね」
「それにそういう話なら俺も変って思われますよ」
「どこが?」
「俺、高橋さんが好きなんです。かなり前からです。だから冷蔵庫選びにつきあおうとしたんです」
は?
思いがけない言葉に俺は口をぽかんとあけた。浅野の手がまた、パリッと板チョコを割った。
「そこまで冷蔵庫に思い入れていたなんて、知りませんでしたから……今は複雑な気持ちですけど。好きな人の婚活を手伝っているみたいで……」
俺には浅野のいっていることが冗談なのか本気なのかわからなかった。浅野は割った板チョコを俺に差し出した。
「もらってくれませんか?」
*
(それから、だいたい一年がすぎ……)
*
ピピピピピ……とタイマーが鳴った。
「何のタイマー?」
背中に響く声を無視して俺は立ち上がろうとしたが、失敗した。
「裕章……様子みてくるだけだから」
「司、何をみにいくの?」
「冷蔵庫だよ。冷やしておいたケーキが」
「ケーキ?」
「だからその、今日はバ、……」俺はぼそぼそっと呟いた。
「バレンタインだから……帰ってすぐチョコレートケーキ、作って……」
ばっと背後から腕が回って、俺はまた立ち上がるのに失敗する。浅野は――俺たちが下の名前で呼びあうようになってかなり経つが――俺の服をがっつりつかんで、シャツの下からまだ手を入れようとする。今日は浅野だけが残業でおそくなって、ついさっき俺の部屋にきたところ。そして俺をベッドに連れ込もうとしたところだ。
はぁっと首筋に息がふきかけられる。
「司、相手は冷蔵庫だ。焼きすぎるわけじゃないから、あとで」
「だけどどんな出来上がりかをみた――あっ、裕章の手、つめた……」
「冷たいのが好きなんだよね?」
「それは冷蔵庫の話で、裕章はちが――」
「大丈夫、司の熱であっためるから」
やっぱり俺は立ち上がれない。ベッドに引き込まれるとき、ちらっと遠くにみえたのは俺の冷蔵庫――今は収納棚として使われている――の水色だ。ふたりで選んだ新しい冷蔵庫はここから見えないところにおさまっている。
(おわり)
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