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雨音の思考をさておき、前回とは違い、ビジネスマンらしきスーツに身を包む男性は、ビジネスバッグから、はい、とあるものを取り出す。取っ手が黒で布の部分が紺色。どう見ても男物だ。
何故ここに。当惑する気持ちをそのままに、雨音は口を開いた。「でも。……あなたの素敵なスーツが濡れてしまうのでは……」
「お嬢さん。お気遣いをありがとう」にっこりと笑うこの青年は――そのまま洗濯洗剤のCMに出てきても違和感がない。芸能人をナマで見るってきっとこんな感覚なんだと、雨音は思う。「ぼくはそれよりも。あなたのような女性が雨に濡れて帰るほうが切ない。……じゃあね」
言うだけ言って青年は傘を雨音に付き渡して。自分は、スーツのジャケットを脱ぐとそれを頭から雪ん子みたいに軽く被り、素早く、黒子のごとく去っていってしまった。……雨の中をひた走り抜けていく黒いビジネススーツの男のシルエット……エクセルの80%くらいの灰色のアスファルトをそして傘をさして歩く人々の群れのあいだを縫い走る男の綺麗な走り方……スポーツ選手のようだ……きっとなにかのスポーツに打ち込んだ経験があるに違いない……目の前の幹線道路で激しく走る車の音……雨だからって憂鬱そうに空を見上げるウーバーの配達員……そしてびしゃびしゃと、雨が、アスファルトを打ち付ける音。
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