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1-1 医事係:納見慧一
2016年10月18日、火曜日。
空が粘土みたいな色をしていて、これから雨が降るのかどうかもよく分からなかった。月の下旬は仕事も大して忙しくないし、今日はさっさと帰ろう。納見慧一は、朝からそう思っていた。
「えっ嘘でしょそれ、怖すぎるんだけど!」
医事課の一端で、委託スタッフの一人が大きな声を出した。
「だって金澤さんのほかにも、何人か見たって言ってたもん」
「どうしよう、怖くてもう残業できないじゃん」
「あんたはもともと大してしてないでしょっ」
そして重なり合うように大笑いする。うるさいなと思いつつ何となく聞き耳を立てると、旧東5病棟で幽霊が出たということのようだった。
「お、何だ、怖い話か?」
外から戻った医事課長の浅利が、何とも自然にその集まりに加わった。定年まであと半年となった彼は、もう消化試合なのか、最近はかつての威厳や緊張感がまるでない。
「課長、そんなのんきな話じゃなくて、一回調査してください! 私たちの休憩室、あそこにあるんですよっ」
「調査って、幽霊を? アホか」
「幽霊じゃなく不審者だったらどうするんですか」
「ちゃんと施錠してれば大丈夫だろ、入り口にでっかい錠前がついてるんだから」
数年前に閉鎖したその病棟は、医事業務委託のスタッフ休憩室兼更衣室が入っており、ほかにレセプト点検室や過去の紙カルテの保管庫、さらに不要機材の物置まで兼ねている。そのため施錠管理は徹底されているが、「錠前」というのがいかにもアナログだ。
「なあに、大騒ぎして。課長にワガママ言って」
落ち着いた様子で、辻原が間に割って入った。彼女は医事業務を請け負う㈱AⅠMの、統括リーダーである。
「せめて監視カメラくらいつけてくれてもいいじゃんって言ってたの。辻原さんからもお願いしてよ」
「ああ、そういえばそんな話、納見さんにはしたことあったっけ」
不意に自分の名前が出されたので、驚いて顔を向ける。
「あ、ああ、そうでしたっけ、そういえばかなり前にありましたね。すぐ係長には相談しましたよ、忘れてると思いますけど」
彼女らは一様に、じゃあダメじゃん、という表情を見せた。
確かに、当時の医事係長には、すぐに相談した。
ちょうど去年の今頃だ、電子カルテを導入したばかりで、医事課が大忙しの時期だった。
紙カルテからの移行に伴いAIMスタッフも残業が急増し、深夜に帰宅する者も増えたため監視カメラの要望が出たが、やがて業務が落ち着くと、その話はどこかに消えた。納見や辻原も、忘れていたくらいである。
「俺は聞いてないけど、まあ防犯の意味なら多少は金がかかってもいいんじゃないのか、設置すれば。総務には俺から話しとくよ」
浅利が言うと、歓声が上がった。
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