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当日のライブハウスは、まさに異様な空気だった。
人で溢れかえってはいるものの、普段のライブにあるはずの、純粋なワクワク感や期待感といったものは存在しなくて。代わりに戸惑いや不安、疑念といった感情が、絵の具が水中で広がるように、じんわりとこの場に伝染していっているように感じられた。
群衆の間を目線で潜り、ステージへ顔を向けると、真ん中に、1つのマイクスタンド。本来なら、加賀さんがいるはずの場所。そして、きっともう二度と、誰かが立つことは無いであろう場所。
正直、まだ怖い。皆、加賀さんがいないことは分かっている。その理由も分かっている。だからこそ、皆何かしらを恐れていて、それがこの空気を作り出しているのだろう。
アナウンスが入り、開演時間となり数分経ったあと。突如として室内は暗くなり、観客のどよめき声が静かに反響する。そして1人ずつ、皆からの歓声や拍手を受けながら、ステージへと上がっていく。ギターの辻さん、文屋さん、ベースの安藤さん、ドラムの荒木さん。4人がそれぞれ立ち位置に着き、本来なら最後にやってくるだろう一人を待たず、楽器を抱え、互いにアイコンタクトを送り合うと、文屋さんがネックを抑え、弦の一音目を鳴らした。
その瞬間、場の空気は一変した。例えるなら、音がライブハウスに反響していくと同時に、10年前へと遡ったかのような。そこには、先程までの不安感なんてものは微塵も存在しない。見渡す限り、皆今演奏されている音楽に圧倒され、惹き込まれ、熱狂している。オレは、ただただ呆然としていた。それでも心の内側が、沸騰して鍋の蓋を揺らすお湯のように、ふつふつと温度を上げていく感覚を確かに感じていた。
イントロが終わり、Aメロに入る。辻さんがアルペジオを奏で始めると同時に、加賀さんがブレスをして歌い始めるんだ。でも、歌声は存在しないはず。先程まで消えていたはずの不安感が、また奥底でぶり返す。
けれど、そんなの杞憂だった。それどころか、目を見張った。人の隙間を縫った先にあるマイクスタンド。そこに、加賀さんがいるんだ。加賀さんが、マイクを握りしめて、笑顔で、オレたちに向かって、誰よりも楽しそうに歌っている。聴こえないはずの歌声が、耳の奥でこだまする。加賀さんが動く度、皆の視線がそこに向かって、皆が彼に釘付けになる。
彼はたったの数秒で、この場の全てを掌握した。このライブハウスは、彼を、彼らのパフォーマンスを劇的に演出するための、最高の装置となった。
気づけば、涙が止まらなかった。会いたかった人が、ずっと憧れていた人が、手を伸ばせば、前に出れば触れられるかもしれない距離にいる。オレは今、彼と直接会うことが出来ているんだ。想いが溢れて止まらない。大好きだ、貴方がずっと大好きだって、叫んで伝えたくなった。
同時に、彼に向けて想いを叫ぶ皆を見て、オレみたいなやつが、この場にいていいのかと、心に突き刺さるように感じてしまった。ダメだ――「私」のようなやつが、貴方を直視するなんて。視界に入れるなんて。
歓声が湧き上がる。サビが終わったのだ。それでも、皆みたいに、真っ直ぐ手を挙げて彼らに応えることができない。湧き上がる感情と涙で、見た目も中身もぐちゃぐちゃになって、自分が果たして今どうなっているのかも、何なのかも分からなくなってくる。
蘇る、あの日のこと。貴方の事を知って、貴方について知った日。貴方にたいして送られる、たくさんの言葉を見て、大好きだと思うと同時に、私は思ってしまったんだ。
ずるい、羨ましいと。
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