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1
彼女が俺の前に来た。
間近で見ると、まるで光があふれているんじゃないかというくらいまぶしかった。
俺はまばたきをして、まじまじと彼女を見た。
全身からにじんでいる空気が、もうすごくきれいでかわいい。
彼女が顔を上げて俺を見てくる。
その顔中が喜びに輝いている。
喜色満面って言うのか。
俺はこんなにきらきらしたものを初めて見た。
彼女はよほど嬉しかったのか、俺の手を、取った。
突然のことに不覚にも俺は心臓が止まるかと思った。
彼女の手は、さらっとして心地よい肌触りだった。
近い。いい匂いがする。石けんの匂いかな。
あらためて彼女の顔に目を向ける。
すとんと落ちるきれいな黒髪に、長いまつげに縁どられた両目はぱっちりしている。すごくきれいで艶やかな白い肌をしていて、とても整った目鼻立ちだ。鼻筋はすっと通っていて鼻翼は小さい。口角の上がった愛らしい唇は、まるで薄い桜の花びらのようで――
思わず陶酔してしまった俺を現実に呼び戻したのは、彼女の珠をころがすような可憐な声だった。
「あ、あの、もしよかったらこのチラシ受け取ってください」
「はい!」
俺は即答すると彼女からチラシを受け取った。
「あ、ありがとうございます」
再び彼女が俺の手を取った。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
やばい。かわいい。めちゃくちゃかわいい。
心臓がばくばくと脈打っているのがわかる。
全身を一〇〇万ボルトの高圧電流が流れていったような気がした。
一目惚れだった。
そう――俺は目の前のこの女の子に恋をしてしまった。
俺を見上げる彼女の瞳はうるんでいる。
少女から大人へと羽化する前の、両者が同居したような危うさを孕んだ顔立ちは、思春期特有のもので、目許や口許にはかすかに色香が宿り始めている。女の子にしては背は高い方だろう。小さな顔にすらりと伸びた長い手足。細い肩は華奢な印象を与えるが、女性特有のやさしいふくらみはふくよかにふくらんでいる。
やばい。抱きしめたい。
その衝動を必死でこらえる。
「あ、あの!」
俺は彼女の手を軽く握り返して、声をしぼりだした。
俺の手は汗ばんでないか、彼女を不快にさせないか、いろいろな思いが脳裏をよぎる。
だが、ここで何かを言わなければ、という思いが他のすべてを圧倒した。
絶対に、決して彼女を手放してはいけない。
そんな警告めいた内なる声が頭の中でリピートされる。
彼女が目を見開いた。戸惑っている様子だ。
焦りがつのる。
「ええと!」
ああ、もどかしい。
何と言えばいいんだろう。
どうしたら、どうすればいい。
彼女の怪訝そうなまなざしが痛く感じられる。
これ以上はとても持ちそうにない。
行くしかない。
俺は意を決した。
「一目惚れしました!」
勢いにまかせて一気に言った。
彼女の表情が驚きを伝えてくる。唇がわずかに動くと、かすかにだが「え?」と言ったように見えた。
「いきなりでごめん。びっくりしたよね。でも本気です。真剣です」
いつしか彼女に一歩、いや、半歩近寄っていた。
彼女の目を真正面から見つめる。ここで目を逸らすわけにはいかない。目に力を込めて、まばたきひとつせず彼女の目だけに全神経を集中させた。
「俺と付き合ってください!」
俺は彼女の目を見つめながら言い切った。
目力なるものが本当にあるのなら、あってほしいと願いながら。
彼女も俺を見てきた。しかし、すっと目を逸らすと、わずかに視線を泳がせ、伏し目がちに消え入りそうな声で尋ねてきた。
「えっと……あの……どうして……その……わたしを……」
俺はすうっと息を吸って、感じたままを答えた。
「なにか運命みたいなものを感じました。こんなのキモいかもしれないけど、きみと目が合った瞬間、この人が運命の人だ!って感じたんです」
彼女が引いてないか、死ぬほど不安になる。
だが、彼女は顔を上げると俺を見つめ返してきた。
真剣なまなざしだった。
良かった、俺が本気だということは伝わっているみたいだ。
勇気を奮わせて続けた。
「もう、今行くしかないって思った。ここで告白しなかったら一生後悔するって思った。きみの手を離しちゃいけないって直感が全身を駆け抜けた」
彼女も目を逸らすことなく聞いてくれている。
「だから、もう無我夢中だった」
俺は目を伏せて、重ねている彼女の手を見た。彼女は嫌がらずにいてくれている。その心づかいがたまらなく嬉しい。
だが、俺は自分の言葉のあまりの気恥ずかしさに、思わず弱音を吐いてしまった。
「ごめん、ダサかったかもしれないね」
「そんなことないよ……」
彼女は、ううん、と首をふった。
俺の心臓は期待と不安でもうはりさけそうだった。
「わたし……こんなの初めてで……」
彼女が少し皮肉っぽい笑みを浮かべながら、俺の手に視線を落とす。
「声をかけてくる人はいたけど、みんななんか軽薄で嫌だったの。だから、こんなに真剣に告白されたの初めてで……」
彼女が初めてでと繰り返す。
「それに……突然現れた男性から『一目惚れ』って告白されるのに……やっぱり憧れがあったから……嬉しかった。ほんとに」
彼女が喜んでくれていた。
俺はあまりの嬉しさで卒倒しそうだった。だが、今、倒れるわけにはいかない。彼女の答えをまだ聞いていない。
俺は彼女の顔に視線を戻した。
彼女の顔にはまだ逡巡が見られる。長いまつげを伏せて悩んでいる。
その靄を切り払うのは男の俺の役目だろう。
俺は再び彼女の目を見つめた。
それに気づいた彼女も俺の目を見つめ返してきた。
逡巡の中にもあとひと押しを「待ってる」という気配がたしかに感じ取れた。
迷うまでもなかった。
俺は思わず苦笑し、そして表情を引き締めた。
彼女も覚悟を決めたのか、「受け止める」という姿勢でいるようにうかがえた。
俺は勇気を出して、もう一度、今度はゆっくりとさっきと同じ言葉を告げた。
「俺と付き合ってください」
二度目の告白は少し、ほんの少し余裕をもって言うことができた。
でも、俺はその言葉にありったけの想いを込めた。
きみを好きだという気持ちの全てを。
「はい」
彼女は出会ったあの瞬間と同じように、ぱあっと花が咲いたように顔を輝かせながら答えてくれた。
しかし、そのすぐ後には、ひとすじ、ふたすじと涙が零れ落ちた。目許をぬぐいながらも涙がとめどなく流れていた。
どうしよう。
ここは抱きしめるべきだろうか。
俺は時間にしては数秒だが、かなり迷ったすえに彼女の肩に手を置いて、そっとやさしく抱きしめた。
彼女は拒否せずに受け入れてくれた。それだけでもう嬉しくて、俺はそれ以上は力をこめなかった。十分だった。彼女が落ち着くまでそうしていた。
彼女からは、全身がとろけてしまいそうなほど甘く、かぐわしい香りがする。
俺は幸せすぎて、何だか世界中に感謝の気持ちを伝えたいほどだった。
「そうだ、名前。名前を聞いてなかった」
俺はそう言って彼女を離した。実はめちゃくちゃ恥ずかしかったというのもある。
「そういえば、わたしも」
目許を指先でぬぐいながら彼女も同意する。
俺たちは思わず顔を見合わせて笑った。そして――
「俺は、遊木青」
「わたしは、青井遊です」
「『あお』って青色の『青』?」
「うん」
「二人とも名前に『青』が入ってるんだ」
「あ、そうか」
「俺は名前に、青井さんは名字に」
「『ゆうき』ってどう書くの?」
「遊ぶに、木」
「わたしの名前の『ゆう』も遊ぶの『遊』なの」
「同じ字が二つも入ってる」
「偶然だね」
彼女――青井さんがにこりと微笑む。涙のあとの残る顔は驚くほど色っぽかった。そして、白くてきれいな歯並びを見せて笑った。
やばい。ほんとにかわいい。
俺は頬や耳まで熱くなるのを感じた。際限なく高まっていくテンションはもはや隠しきれなかった。
なんだろう。名前も似てるし、ほんとうに運命的な何かを感じて、俺は天にも昇る思いだった。
「それで、青井さんはここで何の勧誘してたの?」
このままだと有頂天のままフリーズしてしまいそうだったので、俺は青井さんに声をかけるきっかけとなったことを尋ねた。
「あっ、そうだった!」
青井さんが顔の前で両手をぱちんと合わせた。
「わたし、同好会の勧誘をしていたの」
彼女は、ああ、もう、なにやってるんだろう、と照れ笑いをした。頭をぽんっとたたくしぐさがかわいかった。
俺はさっき青井さんから手渡されたチラシに目を落とした。
そこには――
「ボードゲーム同好会?」
そう書かれていた。
「うん」
青井さんがにこりとうなずく。
「ボードゲームって人生ゲームとかUNOみたいなもの?」
「うーん、その二つをボードゲームに含めるかどうかは論争があるんだけどね」
青井さんが苦笑しながら言った。
「ボードゲームはドイツやフランスではとても隆盛で、大会や賞もあるの。日本でも数年前にブームがきて、いろいろなところにサークルなんかもできた。
この学校にも『ボードゲーム部』ができて、活動していたらしいんだけど、残念ながら人数不足で廃部になっちゃったんだって。
その後は、ボードゲーム好きが時々集まる同好会として、学校からの部費が出ないかわりに活動義務もない、そんなゆるい同好会として存続していたらしいんだけど、昨年度でとうとう最後のメンバーが卒業して、今年度の新入生が入会しなければ、自動的に廃止の予定になってるの」
青井さんが表情をくもらせた。
「青井さんは入会したんだ」
うなずく。
「ボードゲーム好きなの?」
またうなずく。
「あ、あの、遊木くん、もしよかったらボードゲーム同好会に入ってくれない?」
「え?」
青井さんが両手で俺の手を包み、距離を詰めてきた。
近い。目と鼻の先だ。俺が距離を詰めたら、その、唇と唇が触れる――キス、できるくらいに。俺は彼女の唇から目が離せなくなった。
そんな俺の劣情も知らずに彼女は続ける。
「メンバーはわたしひとりしかいなくて、明日までに二人以上の名簿を提出できないと廃止なの」
メンバーは青井さん一人? それってもし俺が入会したら二人きりってこと? 部室に彼女と二人きり。俺はあわてて浮かんでくるよこしまなイメージを振り払った。
「その……どうしてそこまで?」
俺は照れ隠しに尋ねた。
「ボードゲームは……一人じゃできないから……」
青井さんが淋しそうに笑った。
「それに、遊木くんとボードゲームができたら楽しいなって……」
それは消え入りそうなつぶやきだった。でも俺にははっきり聞こえた。
彼女ははにかんでうつむいてしまった。頬や耳が赤く染まっているのがわかる。
俺は悩んだ。
実は先ほどサッカー部に仮入部申請を済ませたばかりだったから。
サッカーは小学校から始めた。中学ではレギュラーだった。
ただ、そこまで思い入れがあるのかと言われれば、答えに詰まる。
それなりに充実していたし、期待や応援されるのも悪くはなかった。
何に悩んだかというと、もしサッカー部の仮入部申請を取り下げたら、仲間を裏切ることにならないか、という点だ。
今、青井さんに出会って、告白して、オーケーをもらって、幸せの絶頂にいるのは間違いない。
しかし、だからといってサッカー部を簡単に切っていいのだろうか。
俺は脳内が焼き切れるほど悩んだ。
青井さんが心配そうに顔をのぞいてくる。
「やっぱり無理……かな?」
また彼女が淋しそうに笑った。
「いや、ちょっと待って!」
俺は思わず叫んだ。
そうだ。サッカー部は俺がいなくても問題はない。代わりはいくらでもいるのだから。
でも、青井さんの同好会は、もし俺が入らなければ明日、廃止される。
そうなったら彼女は悲しむだろう。
せっかく付き合えても彼女の笑顔が戻るまでそれなりの時間がかかるかもしれない。
それは嫌だった。
それに、趣味でやれば、とは俺には言えなかった。
なぜなら、さっき彼女は言った。ボードゲームは一人じゃできない。
彼女は誰かとボードゲームをしたいから同好会に入会した。
でも、同好会にほかにメンバーはおらず、彼女は必死でメンバーを集めようとしたのだろう。
俺は、さっきから俺と青井さんの手の中でくしゃくしゃになってしまっているチラシをあらためてよく見た。
手作りのチラシは、全部手書きで、文字なども彼女らしくかわいらしい。ボードゲームのイラストも添えられている。
そこには、『わたしたちと一緒にボードゲームをしませんか?』とあった。
わたしたち。そう書いた彼女はどんな気持ちだったのだろう。
きっと、すごく淋しかったはずだ。
俺はなんとなく罪悪感が湧き起こってくるのを感じた。
俺の告白は、彼女の淋しさに付け入るような形になってしまったのではないだろうか。
彼女も淋しさからオーケーしたのではないか。
ネガティブな想いが俺の中でふくらんできた。
だったら、彼女を楽しませよう。
彼女と一緒にボードゲームをして思い切り楽しんでもらおう。
俺は彼女の笑顔が見たい。
そのためならサッカーを切ってもかまわない。
もし、仲間たちから裏切りだと言われたらひたすら謝ろう。土下座したっていい。
俺の中で決心がついた。
「入会します」
彼女がぽかんとした顔で俺を見つめる。
「入会手続き、今書けばいいかな?」
彼女がこくこくとうなずく。
信じられないという表情に、俺は思わず笑みがこぼれた。
「申請書、持ってる? 持ってたら……」
俺の言葉はそこで途切れた。
なぜなら――
彼女が抱きついてきたから。
突然のことに、俺はよろけるのを必死にこらえて彼女を抱きとめた。
心臓の音が一気に跳ね上がった。
「ありがとう!」
涙声で彼女が言った。
「ありがとう! ありがとう!」
彼女の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
彼女は何度もありがとうと言い、俺の腕の中で泣き続けた。
女の子って、こんなにもやわらかくて、あたたかいものだったんだな。それでいて、抱きしめたらすぐに壊れてしまいそうなくらい華奢で、そんな脆さを含んだ繊細さが、言葉では言い表せないほど愛おしくて、俺は何も思い残すことはないってくらい感動した。
いや、訂正。
思い残すことがないなんて嘘だ。
これから彼女――青井さんと楽しい思い出をたくさん作っていくんだ。
その日々は、きっと想像もできないほど素敵なもののはずだ。
俺は彼女が泣き止むのを待って、落ち着かせてから、あらためて自分の意思を伝えた。
「ボードゲーム同好会に入会します」
彼女はまた泣きそうになったけど、それをこらえて笑顔で答えてくれた。
「歓迎します。ボードゲーム同好会へようこそ」
俺は差し出された手を取った。
「よろしく」
彼女はやさしく俺の手を握り返す。
「こちらこそよろしく」
こうして俺はボードゲーム同好会に入会することになった。
と、同時に青井さんという理想の女の子を彼女にすることができた。
俺は胸の内に広がる幸せと喜びと嬉しさのあまり、もらい泣きするところだった。
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