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17話
「ただいま戻りました」
編集室に志朗が頭を打たないように屈みながら入ってきた。
「お疲れ、随分とシリアスな顔してるじゃない」
編集長の伊藤に言われずとも自覚はある。
「もう石橋先生のところに伺わない方がいいのかなって」
「上原……」
「あれー珍しい。ラッキーマンがギブアップ?」
聞きつけた青田が茶化すと黒木が睨みつける。
「黄之川先生に書いてもらうのは諦めたんだ?」
「いえ、先ほどご自宅に伺って経緯を少し……。それでも次回作はうちで書いて頂きたいとお願いしました。しばらく考えさせて欲しいとのことです」
当然ながら渚に関しての細かい話は出来ない。描いてもらいたい希望はあるが、描けないという彼の気持ちも尊重したい旨を伝えた。
「え!表紙が絶対条件なら無理じゃねえ?」
青田が悲惨な声をあげたとたん電話が鳴り、伊藤が手を伸ばして取る。
「はい伊藤出版です。……えっ!黄之川先生ですか!?お世話になります」
その名前に一同が動きを止めた。
「この度は色々と……はい、はい。え?…………本当ですか?ありがとうございます。それでは改めて担当のものを向かわせます。…………あ、はい、お気遣い恐れ入ります。失礼いたします」
伊藤は受話器を置いて、一息ついてからピースサインを向けた。
「黄之川先生うちで書いてくれるって!みんなで良い本にしようね!」
「えー!?」
「おめでとう、誠意が伝わったわね」
「おおーすごいな、お手柄じゃん」
「さすがラッキーマンだな」
口々に志朗を労ってくれる。賞を取ったから二作目も売れるとは限らないが、それは作家を含めみんなの今後の頑張りどころだ。
「ありがとうございます。俺すぐに打ち合わせに……」
鞄を掴む志朗を伊藤が手で待つように制する。
「先生からの伝言。『上原くん、ものすごーく疲れてそうだから休ませてあげて欲しい』って。寝不足なんでしょ?」
「はあ、実は一昨日は嵐で眠れなくて……。昨夜も松川先生にどう話そうか考えていたのであまり寝てないです」
渚のことで眠れなかったとは言えない。
「今日は帰って休んでいいよ」
「……はい」
急ぎの仕事もないしぼんやりして、ぽかをするよりはと甘えさせてもらうことにした。
「もう石橋先生に会いに島に頼みに行かなくて良いしね」
油断していた志朗に青田の言葉が突き刺さる。
「え……!あ……そう、そうですよね」
「お前はまた余計なことを」
「何で何で?あ、でも隣のおばさんのお茶とハーブクッキー旨かった。最後に挨拶いくならお礼言っといて」
「ああ、……はい」
最後にと言う言葉が志朗に重くのしかかった。
「ただいま」
習慣でそう言ったが両親も留守、今日は譲治もバイトで家には誰もいない。自室に入って布団に寝転び、青田が言ったことを考える。
(最後にした方が良いんだろうか……)
黄之川に小説を書いてもらえるのはもちろん嬉しい。それがそもそもの目標だったのだから。だが絵の依頼をしなくていいと言うことは渚に会いに行く理由がなくなったということだ。
(多分もう会わない方がいいんだ。あんなことをした俺の顔なんて先生は見たくないだろうし……)
あんなこと、と忙しさで忘れていた渚の艶かしい肢体を思い出して下半身がずくんと疼く。無理やり奪った唇、濡れた体と長い髪。一瞬触れた彼の中心部……。一晩中抱いていた時の愛しい重み。
翌朝に見たたおやかな肢体を思い、昂った自分自身を志朗は一人で慰めるしかなかった……。
「先生、石橋先生。な……渚さんっ!」
仕事の境界線を引く為に呼ばないようにしていた名前を志朗は口にした……。
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