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18話
急に胃腸炎で入院した青田の代わりに、志朗は鳳旅館にいる笹塚に資料を届けに来た。出てきた女将に出版社名を告げて部屋に向かっていると、すれ違いざまに声をかけられた。
「きみ伊藤出版の人なんだね?今聞こえちゃって。うわ大きいなー」
振り向くと三十代後半のスーツ姿の男性が志朗を見上げてくる。
「あ、俺は千鳥屋書房の山崎。以前伊藤出版で働いてたんで懐かしくて。急いでる所ごめんね、俺も原稿取り」
そう言って原稿の入った封筒を持ち上げる。
ここは主人の作る料理も美味しいし、静かな環境も執筆作業に向いていると常宿にしている作家も多い。
「はい、伊藤出版の上原です。自分は資料を渡しにです」
広いようで狭い業界、一つよろしくと挨拶を交わした。
「俺が最後に担当してたのは丸太先生なんだ。今も確かそっちで書いてるよね?」
「ええ、今年から俺が担当してます」
「ほんとに?相変わらず遅筆なの?」
「はい。相変わらず、です」
同じ作家担当と言うだけでその労苦を共有できて笑いあう。
「その前はちょっとだけ熊猪豪介先生とかも……もう亡くなったけど知ってる?」
こんなところで孝介を知った人と会うとは。
「はい!……あ、あの、もしかして渚さんをご存知ですか?」
「ああうん。彼に手を出そうとして熊猪先生に蹴り飛ばされたことがある。俺も若かったから」
山崎は笑いながらあばら骨を擦る仕草をした。
「ええっ!?」
「渚くんが熊猪先生に色仕掛けで取り入ったんだと思って……」
「石橋先生はそんな人じゃありません!……あっ、す、すみません俺っ、すみません」
あまりの志朗の剣幕と威圧感に、平身低頭して詫びられながらも山崎は後ずさる。
「そっか今は石橋出逢先生だっけ。いや、もちろん勘違いだよ。俺が熊猪先生に憧れてて勝手に渚くんに嫉妬しただけ。それなのに彼は俺を許してくれた。おかげでこうして出版社にいられる、恩人だよ。優しい人だよね」
「……はい、優しい人です」
穏やかに渚を思う眼差しに山崎は察した。
「彼のこと、好きなの?」
あまりに唐突で志朗は取り繕うことも出来ない。
「ええっ、はい。いや俺なんて相手にしてもらえません。あんな凄い作家さんと生きた人。……あの人に笑って欲しいだけなのに、俺は却って傷口を広げるばかりで……」
「熊猪先生は素晴らしい人だった。それでも彼がいない今、渚くんには生きて支えてあげる人が必要だよ。きみの思いが伝わるといいね」
今日志朗に会えたことが、渚へのお詫びになったかもしれないと言う。
「ありがとうございます」
山崎は表にいた志朗が乗って来たタクシーに乗り込んだ。僅かな時間の差ですれ違っていたかもしれない人との巡り合わせに今日も感謝した。
(俺にあの人を支えるなんて出来るんだろうか……。支えると思うこと自体がおこがましいのかもしれないけど)
渚に会いに行きたい、いや、もう行かない方がいい。今まで真知子がいることで平穏に暮らせていたのだ。自分がいなくても、元の生活に戻るだけだと言い聞かせてもみた。
──答えの出ないまま数日が過ぎ、黄之川と新作の打ち合わせが始まった。丸太も相変わらず締め切り間際に手が止まる。青田の仕事も回ってきて忙しく、志朗は家に帰れない日が続いた。
ある夜、誰もいない上原家で電話が鳴り、すぐに留守番電話に切り替わった。
『真知子やけど……志朗くん、おらんの?……えー、留守電苦手やなあ、ポケベルも何かようわからんし……。あのな急なんやけど──』
ピーという音と共にメッセージが録音された。
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