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19話
その翌日、志朗が入校を終えて編集部に帰って来た。
「原稿印刷に回しましたー」
「お疲れ。お客さんだよー、石橋先生」
無事職場に復帰した青田に言われて何を冗談、と頭を打ちそうになった。ところが隅のソファーに渚が座っている。
あまりに会いたすぎて自分は白昼夢を見ているんだろうかと目を擦った。
「お帰り上原くん」
「え、え、先生?どうしてここに!?」
「名刺に住所書いてたから船と電車で来た」
折り畳まれたメモといつか置いてきた名刺を持っている。
「あー、えーと……」
「行き方はおばさんに聞いた」
「はい」
渚のペースが久しぶりで嬉しい。
「本読んだよ。時間かかったけど、いつもより読みやすかった」
以前渡した黄之川の本を斜めがけにした鞄から取り出し、志朗に返そうとした。
「それは先生に差し上げたので持ってていいですよ」
「うん……」
「ん?少しいいですか?」
不自然に膨らんだ本を黒木が渚から受け取り、ページをめくると薄い色板が挟んである。
「全部に手書きでルビ振っているんだな大変だったろ。へえ色板ずらすようにすると読み安いのか」
「文章を読むのが苦手だと伺ったので色々調べて。受験勉強で使うシートを利用しました」
「ほう、アイデアだな」
「どれどれ。あ、これ俺も目がずれなくて読みやすい」
青田も感心する。
今日は渚は髪を後ろに縛り、涼しげなストライプの長いシャツを着ている。スラリとして美しさが増し、見とれてしまう。
「人が多いし、以前とは道も違って大変だったでしょう」
「…………」
頷いたあと黙り込む様子に心配していると渚がぼそりと言う。
「来ないから……」
「え?」
「上原くん、また来るって言ったのに来ないから来た」
「あ……!」
くよくよ悩んでいたことなど吹き飛んでしまった。はるばる自分に会いに来てくれた嬉しさに眩暈がしそうになる。
「一緒に美味しいもの食べたい。上原くんと李さんのラーメン食べたい」
(あ、俺じゃなくてラーメンか)
少し苦笑いになる。だが本を返しに来たのもラーメンも、渚が一生懸命考えた志朗に会いに来る理由かもしれない。
「上原、石橋先生連れてってさしあげて。今日はもうそのまま帰っていいから」
伊藤が言い、志朗はすぐに私物を持って帰り支度をする。
「はい。行きましょうか先生」
うんと頷き、部屋から出る所を伊藤が昔のように呼ぶ。
「渚くん……」
「なに?」
「上原といて楽しい?」
尋ねると満面の笑みで答えが返ってくる。
「うん、すごく楽しいよ」
「そうなの、よかった。行ってらっしゃい」
渚はバイバイと手を振った。編集部はまだざわざわしている。
「石橋先生、美人だったな」
黒木がそう言うと青田がえっという顔をする。
「男でも美人て言うの?」
「言うんじゃないか?それに料理が上手いって」
「ああ、言ってた!いいなあ上原」
太りぎみはとうに越えた青田を横目でみる。
「お前は食い過ぎだ」
「だって先生たちに美味しいもの食べて気分転換して欲しいもん。上原と違ってラッキー体質じゃないから俺それしか出来ないし」
青田なりに先生に喜んでもらう努力をしているのかと頷きそうになった、が。
「いや、お前が食べなくて良いだろ」
「へへへ、おすすめするには食べないと」
「青田の分は経費で落とさないよ」
「えー、編集長ー」
「ダメ」
伊藤は椅子をくるりと回して窓の方に向く。
「豪さん、もう安心していいよ」
小さな声で言うと十年分の胸の支えがやっと降りた気がした。
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