2話

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2話

「小さな島で住人も少ないから、行けばわかるって言われたけど……。うーん」  スーツ姿で半日乗り物に座っていたせいで体がきしみ、志朗は大きく伸びをした。  辺りを見回しても小さな山と、遠くに民家がいくつか見えるだけ。フェリー乗り場以外の大きな建物はない。まずは帰りの時間を確認しようと桜の木の横にある時刻表に近づく。 (一日四便か……)  そのうちの三時の便は志朗が乗って来た船で、たった今出港した。  待合所には人がいるようなので、何か聞ければと中に入って聞くことにする。 「ニャー」  どこから来たのか黒い猫が志朗にじゃれついてきた。持っている紙袋の匂いを嗅ぐと「にぃーにぃー」と嬉しそうに鳴く。 「ごめんね、これはダメなんだ」  手土産の入った紙袋を持ち上げるが、猫が足元から離れない。肘が枝に当たり花びらが舞う。その時。 「やっぱり買いすぎたー。また荷物取りにこないかん」  急に大きな声がしたせいで黒猫は飛び上がって逃げていった。  声の主は四十代半ばのパーマヘアの小柄な女性。本土から同じ船に乗ってきた人だ。女性は自転車のかごに乗りきらない買い物袋をハンドルに掛け、それでもまだ両手に荷物を持ち立ち尽くしている。 「良かったらお手伝いしましょうか?」  声をかけると、志朗の長身に驚いたもののすぐに笑顔になった。 「かまんの?助かるわ、ありがとう。お兄ちゃん」  志朗はビニールカバーのついた紙袋を幾つか受け取る。 「すごい量ですね」 「島にはほれ、そこの年寄りがやっじょる小さい商店しかないけん、街に出たらようけ買うてしまう。ほんまは最終便で帰るつもりやったけど、これ以上持てんし。──ここへは観光で来とん?なんちゃ見るとこないで」  女性はスタンドを外して自転車を押しながら、この辺りの方言で親しげに話しかけてきた。 「いえ、人に会いに来たんです。仕事の依頼……と言っても画号しか知らなくて。石橋出逢さんて画家の方なんですけど、ご存知ですか?」 「あれ、なんやー。渚くんとこのお客さんやったんな」  そう言って志朗の顔を見てくる。 「渚くん?」 「兄の子なん、うちの隣に住んどるんや。いや、本名言うたらいかんかったかな?んーまあでも、あんたええ人そうやし。小さい島や、どうせすぐわかるやろ」  警戒心のない女性に志朗も微笑み返した。 「ありがとうございます。俺、運が良いって周りの人によく言われます。今も船を降りてすぐに先生を知ってるあなたに会ったし」 「そうなんやー。その運の良さ、少しは渚くんに分けてあげて欲しいわ……」  志朗はおやっと思った。 「石橋先生ってお若い時に美科展に入選して、今も作品が人気なんですよね?」  来る前に美術雑誌で見た彼の絵画は、絵心のない志朗が見ても素晴らしかった。カラフルな線で細かに描き込まれた生き物たち。或いは鉛筆描きのモノクロ写真のような風景。上下すらわからないダークな配色の幾何学模様の中に混ぜ込まれた一筋の煌めき。様々な画材を巧みに生かした作風に、黄之川が本の表紙を切望するのも頷ける。 「まあな、でもそれだけで幸運とは言えん。お兄ちゃん背が高いけん何かスポーツしよったんやろ?そこでは苦労したんと違うん?」  ここでも志朗の長身でスポーツ歴を言われた。 「ずっとバレーやってました。大学の時はキャプテンもしてたけど、仲の良いチームでしたよ。故障もせずにやりきって、卒業間近にたまたま出版社の人と話す機会があったんです。それで興味を持って今の仕事をしています」 「あれまー順調な人生やな。明るすぎて渚くんが苦手や言うかもしれんなあ」  小さな体をのけ反るようにして言う。 「あのそれ、うちの伊藤編集長にも言われましたよ。俺、石橋先生に嫌われないかな……」  その言葉に驚いた女性は自転車を押すのをやめる。 「伊藤さんって……ひょっとして伊藤出版の?」 「え、はい。あれ、お知り合いですか?」 「兄の担当編集者さんやったん。東京におった時もこっちに帰ってきてからも、よーけお世話になったわ」  女性が歩き出したのとは逆に、志朗がびっくりして足を止めた。 「えっ!石橋先生のお父さんは作家さんなんですか?うちで執筆されてた?…………すみません勉強不足で」  驚きを隠せない様子の志朗を見て、ゆっくりと視線を落とした。 「ほうな、ほんだら何も聞いてないんやな。──まあそんでええかもしれん。荷物助かる。渚くんのとこ案内するわな、ちょっと会話しにくいかもしれんけど」 「はい……?」 (編集長がそんな大事なことを伝えなかったのはなんでだろう。それに会話しにくいって……?)  さっきまで饒舌だった彼女が急に無口になる。だが志朗はそのままついて行くしかなかった。  彼に会えばわかるだろう、そして誠心誠意伝えれば仕事も受けてもらえるだろうと。今までずっとそうしてうまく行っていた。志朗が楽天家と言われる所以である。
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