22話

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22話

「お風呂熱くなかったですか?」 「うん」  先に出た志朗が冷たい麦茶をテーブルに置く。 「え……と……すみません、着替え俺のTシャツで」 「すごく大きいね、ふふ。今日は楽しかった。ラーメンも教会も」 「ええ」  今日一日でここ数ヵ月に見た何倍もの渚の笑顔を見られた。そう思っていると渚が鞄から黄之川の本を取り出す。 「それはもう……」 「あのね、ぼくこの人の次のお話の絵を描きたい。それ言いに来た」  突然の渚の宣言に志朗は飛び上がる。 「ええっ、本当ですか!?黄之川先生喜びます!先生ね、昔すごく辛いことがあった時にうちの雑誌を見たんですって。カラフルな色合いで人も動物も植物も笑っている絵を見て元気が出たとおっしゃってました。それが石橋先生のイラストだったそうです」  あまりの嬉しさに一気に喋ってしまった。  そして黄之川から聞いたのはもう少し複雑な話だ。信頼していた人に裏切られて大きな借金を背負わされ、家族を巻き込まないために自ら離れてしまった。誰にも見つからない所で死のうと場所を探しに入った書店で、渚の絵が表紙の本を見たと言う。 「多分アクリル絵の具買ってもらったから描いた時のだ。伊藤さんが雑誌の表紙にしてくれて、それからいっぱいお仕事が来るようになったの」  だから他紙ではなく、繋がりのある志朗にだけ注文をつけた。  黄之川は死にもの狂いで十年働いて借金を完済し、それからまた働いた金で当時の生活を書いた本を自費出版した。金が目的ではない。行方のわからない家族を探して再び家族になるために。それがあちこちで評判になり直鳥賞を受賞するに至ったのだ。 「黄之川先生は本当は自分が条件を出すなんておこがましい、でも他に思いつかなくて無理を言ってしまったと謝っておられました。石橋先生に絵を描いてもらえなくても救われた気持ちは変わらないから、うちで書いてくれることになったんです。何かの折りにこの話を俺から先生にして欲しいと頼まれていました」  著書や受賞式でも家族にメッセージを送っていたところ、あの嵐の日の翌日に黄之川に連絡が入ったのも執筆の後押しになった。 「そっか」 「ありがとうございます。大丈夫ですか?無理してませんか?」  志朗が顔を覗き込む。 「うん。本当は絵を描くの好きなの。でもみんな死んで、ぼくだけ生きて好きなことしちゃだめだって思ってたから」 (ああ、それが『描けない』と言うことだったのか……) 「ぼくが描くようになっても、上原くん島に来る?」 「え?ええ勿論。打ち合わせもあるのでむしろ頻繁に行きますよ」  なんでそんなことを聞くんだろうと首を傾げる。 「初めて来た日に、ぼくに表紙描いてもらうまで来る、って言ったから……」 「はい、そう言いましたね?」  爪を弾くようにしてモジモジしている。 「描くようになったら、もう来ないのかなって……」  やっと渚の言いたいことがわかった。 「あ!行きます。いや用がなくても会いに行きますよ!」 「良かった」  安心した様子で渚がはにかむ。 (ああ、もう……ダメだ。こんなの……) 「俺……先生が好きです、大好きです!この先もあなたの人生に関わりたい。何かして欲しいんじゃありません。頼って欲しいけどそれも重荷なら、ただ俺のそばにいて好きでいさせて下さい」  ソファーの隣に座り、渚の手を握る。 「本当はね、今すぐあなたを押し倒してこの間の続きをしたい。あなたの全身を愛撫してあなたを抱きたい。あなたとひとつになりたい」  すると渚からさっきまでの明るい表情が消え、志朗の手を離す。 「ぼくが母さんと住んでた時、いつも来るおじさんがいた。母さんがいないとおじさん体いっぱい触る。嫌だったけど母さんが悲しむから我慢した……。でも母さんそれ知ってた」 「あ……」 「母さんの入院費いるだろっておじさんに風俗に連れて行かれた。お前は体売るしか出来ないからって……。お金が良いから本番する店に移るかって言われた日に先生が迎えに来てくれた。でも……そのおじさんが本当のお父さんだった」 「そんな…………」 (実の親にそれほどのことをされて……)  嵐の夜に渚が言っていたし真知子からも聞いてはいたが、あまりにも残酷ではないか……。 「もう言わなくていいです。あなたが砂凪孝介さんと愛し合っていたことも知っています。それでも俺はあなたを抱きたい」 「だめ!……だって先生もほんとは僕のこと抱きたくなかったかもしれないのに」 「え?」  体を抱え込むようにして小さくなる……。 「ぼくがエッチで、いやらしい体だって言ってた」 「え、あ、ええ?何でそうなるんですか、最高じゃないですか!先生のことが大好きだって意味で言ったんだと思いますよ?」  黙って首を横に振って、膝を抱える手に力を入れる。 「ぼくが好きになった人は不幸になる。上原くんのこと不幸にしたくない。もう誰のことも好きにならない!」  志朗はにんまりする。 「言ってくれましたね。好きだって」 「言ってない!」  ムキになって反論してくる。 「でも思ってる、俺のこと好きだって。だから俺を不幸にしたくないんでしょ?」  渚は何も答えない。嘘のつけない彼が愛しくて志朗は体ごと両手で抱き寄せる。 「嫌いなら嫌いって言って下さい。すぐにこの手を離します。仕事も他の人に任せて二度と先生に会いません」  渚のつぶらな目にみるみる涙が溢れてきた。 「嫌だ、上原くんさっき会いに来るって言った!会いに来て、いつもぼくのそばにいて!」 「はい」  ごめんなさい、泣かせてと謝る。 「ぼくより先に死なない?」 「死にませんよ、あなたを一人おいて死ぬなんて」 (彼はどんなに心残りだったろう……)  孝介の分までとは簡単に言えないけれど、全身全霊で渚を愛すると志朗は誓った。 「好きです。あなたを抱いてもいいですか?」  顔を近づけると渚は目を閉じて頷き、二人は唇を合わせる。 「俺の部屋に行きましょうね」 「うん、きゃっ」  志朗に抱え上げられた渚は、あまりの高さに悲鳴を上げて首にしがみついた。  さっき渚が入浴中に譲治の部屋に「お泊まりセット」を取りに行ったら、新しい着替え……ではなく愛し合うための必需品が入っていた。  兄としてはどうかと思うが、今回はありがたく使わせてもらうことにした……。
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