6話

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6話

 腕時計をチラリと見て、志朗は真知子に会いに行くことにした。隣と言っていたので畑を挟んだピンクの三角屋根の洋館に近づくとすぐに彼女の自転車が見える。  ウェルカムボードはトールペイントで片瀬と描かれ、テラコッタの植木鉢に小花が寄せ植えられている。呼び鈴を鳴らそうとした時、ちょうどドアが開き真知子が出てきた。 「ああ、どなんなった?仕事受けてもらえたん?」 「今日のところは残念ながら。あの…………」  渚の父親のことを聞こうとして、他人に言う話ではないと言った彼の言葉を思い出して言い淀んだ。 「兄さんのことな?」  察してくれた、と言うよりは真知子の方も初めから話そうと思っていたようだ。 「はい。もう亡くなられていたんですね」 「死んで十年になるん。渚くん親に虐げられとってな、兄さんがそれ知って家におらしたらしい。叔母さん夫婦探して引き取られとったのに、その人らにも死なれた言よった。それで兄さんが養子にしてこっち連れて来たん」 「──ずいぶんご苦労されたんですね。あのそんなことを俺に話して大丈夫ですか?」  あまりの災難続きの渚の生い立ち……。初対面の自分が他人の家庭事情を詳しく知っていいのかと不安になる。 「うちやって誰にでも言うたりせんで。伊藤さんがここ教えたんは、あんたを信用しとるからやと思うけん。そんな風に心配してくれるくらいええ人やんな、自分」 「いえ……。でも編集長は立派な方です」  黄之川から渚の画号が出たと言った時に伊藤は驚き、志朗にここを教えるべきか葛藤があったに違いない。 「そういや、兄さんと渚くんのペンネームつけたんもあの人やわ」 「えっ、そうなんですか?俺なにも聞いてなかったんです」  そもそも島に来るまで単なる知り合いだと思っていた。 「兄さんが中学生の渚くんと初めて会うたんが、石橋の上やったんやと。家のことが辛うて死のうとしてたんかなって。落ちてもケガするくらいの浅い川やったみたいやけど、渚くんやし」  真知子が言う「渚くんやし」と言うのは、年齢のわりに考えが幼いと言うことだろう。その彼が死にたいと思う環境にいたことに志朗は胸を締め付けられた。 「兄さん種まきして逝ったけんな」  真知子が志朗の顔を見上げる。 「種まき、ですか?」 「渚くんは見た通り、人とつき合いするんが難しやろ?勉強も出来るんもあるけど、文章読んだりするんは苦手や。兄さんあの子に色んなこと教えて、得意な絵を描いて仕事にして生活出来るようにって」 「そうですか……」 「ほんまは自分がそばで見守りたかったんやろけど。仕事の書類を書いたり役所に出す手続きはうちがしよる。もう旦那も亡くなって息子も大きなって島でたけん色々手伝えるし」  彼はさぞ心残りだったに違いない。 「真知子さんがいてくれて安心ですね。……先生とのコミュニケーション、俺はしやすかったですよ。イエスもノーも明確で」  嘘のない渚の態度に好感が持てたのは素直な感想だ。 「ええ人やな自分。男前で背も高いけんモテるやろ」 「うーん、たまに告白もされるんですけど見上げるのに首が疲れるってフラれます」 「へえ!」 「それにバレーしかしてこなかったんで、デートも映画とか流行りの本とかさっぱりだし」  笑って聞いていた真知子が同情してくれた。 「ほんだら出版社の仕事大変やなあ」 「とんでもない、新しいこと知られて楽しいですよ。こうして今日も出会いがありました」 「前向きやなぁ。ええ親御さんに育てられたんやな」 「ありがとうございます。両親が忙しくて姉三人が私たちのおかげで大きくなったって言ってきますけど」 「ああ四番目で四郎くんな」 「字は違うんですけどね。志しと朗らかって書くんです。下に弟もいます」 「まあ五人兄弟!あ、そろそろ船の時間やろ。うちお茶も出してない。庭で採れたハーブティ飲んでもらいたかったわ。またおいでな志朗くん」  そう来客もない家のようで真知子は残念がってくれた。 「ご迷惑にならない程度に来ます。これ俺の名刺です。表のは編集部でポケベルの番号もあります。裏に家の電話番号書いてあるので何かありましたら」 「そしたらうちと渚くんとこ教えとくな。おらん時に来てもいかんやろ」 「ああ、すごく助かります!」  こういう時、本当に自分は運がいいと思うのだ。 「まあ、あの子はめったに島から出ることないけど」 「そうですか……」 「またおいでまい」 「はい、お世話になりました」 「いやいや、荷物ありがとうな」  志朗は港への道を急いでいた。 (独り暮らしには広すぎる家だった。いつも遺影の前で亡くなった人たちに語りかけているのかな……)  寂しげな美しい容姿と、対照的な食事の時のはしゃいだ様子。その全てが志朗の心を捕えて離さないでいた。  フェリー乗り場につくと、来た時に見た黒猫が木の下で丸くなって眠っている。  潮風が桜を散らし吹雪のように舞う様子に、手を振り別れた渚を思う。彼は今年の桜を一人で見たのだろうか。それとも家族を見送りすぎて、春になれば桜が咲くことも忘れているのだろうか……。  今すぐ引き返してこの桜を彼に見せたい。そして一緒に笑いたい。  その衝動を押さえ、志朗は島を後にした。
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