7話

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7話

「そっか、一筋縄では行かないと思ってたけど、さすがのミスターポジティブでも無理だったか。でも渚くん元気そうで良かったわ。ずっと気になってたのよ」  伊藤は編集部の窓際でコーヒーを飲みながら志朗の報告を聞いていた。 「はい……」  昨日は作画の依頼を断られたと電話連絡だけ入れ、今日は出社し改めて渚との詳しいやり取りを話した。今は編集部がみんな出払っているので込み入った話も出来る。  渚が元気、と言うのが正しいかどうかわからなかったが、伊藤に言われて持っていった餃子を大喜びで食べたことは伝えた。 「お綺麗な方でびっくりしました。背は高いけど女性らしい……っていうのかな。あ、先生の画号つけたの編集長なんですね。それと熊猪(くまい)熊猪豪介先生ていうペンネームも」 「まあ成り行きでね。あんまりとか言わないでよ」 「言ってません」 (ちょっと思ったけど) 「豪さんは祖父が呼んだ人なの。前にいた新聞社をゴタゴタで辞めてうちでコラムや小説書くようになってね。本名は砂凪孝介だけど、見た目も文章も豪快な人だったから、もっと厳ついイメージが良いかなと。大嵐権蔵と鷹鷲熊五郎も悩んだんだけど」  独特のネーミングセンスに唸ってしまった。 「ああ、いや、熊猪先生で良かったです。資料室で探して本も読みました。病気で亡くなったんですね」 「そう、もう十年になる……。東京より渚くんが自由に絵を描けるだろうから故郷にアトリエ付きの家を建てて。でも島に帰って一年たたずに亡くなったわ。長くないことはわかってたから、版権のことも渚くんが煩わしくないように妹さんに任せて」  会社との連絡事も間に経理も入っているので、長いあいだ会っていないと言う。 「妹さん良い人ですね、島育ちでおおらかで。方言も何とかついていけてます」 「真知子さん?ああ……そうだね。あの人がいないと実際困るだろうし」  伊藤にしては珍しく含みのある言い方をする。だが志朗は他に少々気になっていることがあった。 「あ、そうだ浴衣……」 「浴衣?」 「はい、大きな浴衣。お会いした時に石橋先生が大事そうにしてたから」 「ああ、豪さんのね。亡くなった奥さんが仕立てた物だと聞いたわ。寝間着にしてたから、こっちより島でよく着てたんじゃないかな」 (形見のようなものか……) 「一人で寂しいですよね。いや、真知子さん賑やかだけど、一緒に住んでるわけじゃないし……」  細かいことは言わない方が良いだろう。そこまでの付き合いなら伊藤に心配をかける。 「それで、やっぱり俺は石橋先生に絵を描いてもらいたいです。黄之川先生の本をうちから出したいです」 「そう……。この件は前にも言ったけど上原に任せるから納得が行くようにして良いわよ」 「ありがとうございます!」  志朗の顔が明るくなった。 「これから大変だね。責任重大よ」 「はいっ、石橋先生の絵も黄之川先生の次回作も」 「うん、そっちも頑張って」 「はい!……も?え?」 (それを目指しているのに、他に何を頑張るんだ?)  志朗が首を傾げていると電話が鳴り、伊藤が取る。 「もしもし、……お疲れ。…………ああわかったわ、今から上原行かせる」  会話からおおよその内容はわかり、志朗は出る準備を始めた。 「青田が笹塚先生の缶詰めに付き合ってるの。上がったからいつもの(おおとり)旅館に原稿取りに行って。青田ヘロヘロだから途中で原稿なくしても困るし」  遅筆で手が止まる丸太とは違って、笹塚は書くのが早いぶん、途中で納得が行かず何度も書き直すタイプだ。それはそれで急に別の資料が必要になったりして担当は走り回るし、結局しめ切りギリギリまでかかる。今回もそうだったようで青田は満身創痍らしい。 「わかりました、行ってきます」  志朗は鞄を手にして急いで編集部を出ようとした。フットワークは軽いが大柄なので、狭い出入り口で印刷所から帰って来た黒木とぶつかりそうになる。 「おっと、気をつけろよ」 「すみません、行ってきます」  バタバタと足音が遠ざかった。 「張り切ってるな、あいつ」 「若いからねぇ。また一つ新しい目標見つけたみたいだし。さて、仕事仕事」 「はい」  伊藤は冷めたブラックコーヒーを一気に飲み干した。
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