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8話
「おはようございます、上原です」
「おはよう志朗くん、遠いとこよう来たなあ」
すぐまた島に行けるはずもなく、何とか仕事を調整して来られたのは二十日あまりたった頃。渚の家に行く前に真知子の所に顔を出した。玄関の段差があっても身長二メートルの志朗を百四十センチの真知子は大きく見上げる。今日は花柄の洋服で、玄関に置かれた人形やドアノブに付けた編み物などからも可愛い物が好きなのが見てとれる。
「はい、また来ました。これ会社の近くの和菓子屋さんの羊羮なので良かったら。作家さんも皆さんお好きで、美味しいんですよ」
「あらまあ!ありがとう。気ぃ遣わせて悪いなあ」
紙袋と包装紙から有名店の物だとわかり大喜びだ。
「とんでもない。来たはいいけど先生がいないのでは困るので助かります」
「渚くんにもこれお土産?」
聞かれて志朗はビニール袋を持ち上げた。
「いえ、このあいだ中華料理店の餃子をお持ちしたらすごく喜んで下さったので、そこの別の物を」
「あの子は自分でも料理出来るし、お金も自由になるけど贅沢言わんな。町に行くけん何か要るんな?て言うても要らん言うし。島の店で売っじょるもんで作りよるわ」
「食物の好みはそれぞれですよね。俺も作家さんと料亭行って美味しいって思うけど、帰って食べるお茶漬けも旨いです。食は記憶と繋がっているとも言うし」
真知子があっという顔をした。
「そうか!兄さんが渚くんと初めて会うた日に一緒に食べた中華屋さんのやな。ちゃんと食べさせてもろてなかったんかお腹一杯食べさせた言よったなあ」
(ああ……、それであんなに喜んでくれたのか…………)
知れば知るほど渚の生い立ちが気の毒になる。
「今も一人やと食べんといかんけん、時々畑で採れた野菜や、うちが作ったもん持っていくんや。食べ物粗末にしたらバチが当たる思うんか、田舎料理でも食べてくれるわ」
「それは真知子さんの作るものが美味しいからですよ」
「まあ!若いのに上手に言うなあ」
普段無口な渚といるので誉めてもらうことも少ないのか嬉しそうだ。
「ああ、そんなら早よ行かんと。一応あんたが来ることは言うといた。仕事の口添えもでけたらええんやけど」
「充分後押ししてもらってます」
「そんなら良かったわ、帰る前にまた声かけて」
「はい」
真知子に聞くと渚は絵を描かないわけではないらしい。カット絵やデザイン画など、決まったところの中で自由に使える契約をしていると言う。義父の印税が入ると言っても、この先も生活をしていかなければならないし。
(それならまだ描いてもらえるチャンスはあるかな)
志朗は砂凪家のチャイムを鳴らして待っていた。真知子は勝手に上がっていいと言っていたが、居ることはわかってるのだからそれもどうかと思う。
やはり少しすると降りてくる足音が近づいてドアが開いた。と同時に中からふわりと甘い香りがした。
(あれ、この香り……)
「あ、こんにちは。上原です」
ペコリとお辞儀をしたが、渚の表情は固い。
「何度来ても描かないよ。描けないから」
この間の様子から簡単に受けてくれないことはわかっている。
「先生の考えもあるでしょうからすぐには無理だと思っています。今日は先生の顔を見に来たのと、これ渡しに。大陸食堂のラーメンです」
「えっ!」
渚は目を丸くして驚く。
「そのまま持ってきたんじゃないですよ。また大将にお願いして麺とスープを分けてもらいました。チャーシューとメンマも入れてくれてます。二人前ありますから真知子さんとでも、お好きなら先生が二回食べてもいいですよ。もちろん、これ食べたから描いてってことじゃないですからね」
志朗が念押しすると渚は受け取った。
「ありがと!今から作る、一緒に食べて」
「あ、俺とですか?」
こくんと頷く。
「はい、お邪魔します」
(良かった、そう言ってもらえて)
家に上がりながら志朗は胸を撫で下ろした。
初めて会った日の帰り道、渚ともっと一緒にいたいと思った。食事をして笑わせて、自分が少しでも彼の寂しさを埋められたらいいのにと……。
後ろ髪を引かれるように東京に帰ってから、志朗は渚のことばかり考えていたのだから。
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