9話

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9話

「鍋ってこれですか?棚の上の」 「うん、あんまり使わないからそこに置いといた。踏み台……」  渚が台を取ろうとするより早く志朗が大きな鍋を掴んだ。 「届きますよ、軽いし。はい」 「ありがと」  志朗が言われて湯を沸かすと、渚は隣でチャーシューとネギを切っている。 「先生、本当に手際がいいですね。俺は全然だめです」  それを聞いて渚は手を止めた。 「上原くん高い所のお鍋取ってくれたし、上手にお湯沸かしてくれた。全然だめじゃないよ」 「え……、ありがとうございます」 (子供の頃にそう言って誉めてもらったのかな?)  その姿を想像すると何だか微笑ましい。 「弟は飲食店で働いてて料理上手なんです。腹が減ったって言うと冷蔵庫にあるものですぐ作ってくれます」 「へえー、すごいね」 「はい」  温めたスープに湯切りした麺を入れ具材を乗せるとラーメンは出来上がった。 「わあ、いただきます」  手を合わせ、志朗も胸の所で手を組む。 「いただきます」  渚は待ちきれない様子で麺をすすった。 「おいしー!」 「美味しいですね。味は変えてないそうです」  志朗が言うと、渚は何度も頷く。 「うん、昔のままだ。美味しいね上原くん。持ってきてくれてありがとう!」  よほど懐かしいのだろう、思い出の味に目が潤んでいる。 「……はい」 (持ってきて良かった。また李さんに無理を言ってしまったけど)  前に渚が餃子を喜んだ話をしたら、今回も特別に用意してくれた。 「美味しかったー」  ごくごくと喉を鳴らしスープまで飲み干して満足そうだ。 「上原くんはごはん食べたあと、タバコ吸わないの?」 「すいません」 「謝らなくてもいいよ」 「あ、いえ、タバコは吸いませんってことです。スポーツやってたこともあって」 「ああ」  自分の勘違いに渚はふふふと笑う。 「先生の笑い顔、初めて見ました。可愛いからもっと笑ったらいいのに」  つられて笑って言った志朗はハッとする。 「す、すみません。年上の方に可愛いとか……」 (俺なに言ってんだろ。いやでも可愛いいし……。いや綺麗なんだけど……)  思考がやや混乱ぎみだ。  それに笑うと言っても渚はこの生活で何か楽しみががあるのか。テレビを見て笑ったりするのだろうか。 「うち五人兄弟なんです。今は二人の姉がお嫁に行って、もう一人の姉は別に住んでますけど、家にいた頃はみんなでテレビ見たり賑やかでしたよ」 「仲良しなんだね」 「ええ弟とは今も一緒です。先生は一人っ子ですか?」 「うん。母さんは妹がいて、小さい時に料理とか教えてくれた。それからお母さんになってくれた」 「だからお上手なんですね。美味しかったです」  その人も亡くなったと聞いた。本当は黄之川の話をして関心を持ってもらおうと思ったのだが今日も言い出せなかった。  洗い物を手伝って鍋を棚に戻し、上げていたワイシャツの袖を下した。 「俺……そろそろ帰りますね」  そう言うと渚が壁の時計を見る。 「船まだ時間あるよ」 (ん?引き止められてる……のか?) 「プリン好き?」 「あ、はい」 「もう冷えたから持って来る」 「え?」  いそいそと冷蔵庫を開けてアルミのプリン型を取り出した。型をうつ伏せにして皿に出すとカラメルが流れる。 「上原くんが来るの聞いたの朝だったから、あるもので作れたのこれだった」  真知子には昨夜の内に連絡したが、予定が変わることもあるので電車に乗る前に再び電話をかけた。それを聞いた渚がわざわざ作ってくれたようだ。 「嬉しい!喫茶店のプリンみたいだ。こういうの家で作れるんですね」 「卵と牛乳と砂糖があったら出来る。オーブンまだ使えたし」 「へえー、箱に入った粉に牛乳混ぜるのは姉が作ってくれたけど。……いただきます」  先が平たいスプーンですくって食べると優しい甘さが口に広がる。 「ん!美味しい」  来た時の甘い香りはこれだったのか。渚も「良かった」と言ってニコニコと口に運ぶ。 (食べる時は楽しそうだな、やっぱり子供みたいで可愛い) 「ごちそうさまでした。また来ます」  そう言うと先日と同じように少し困った顔をする。 「また来ても描かないと思う……」 「俺が先生に会いたくて来るんです。あ、いや、描いては欲しいけど。……ともかくまた来ます。真知子さんの所に寄って帰るのでこれで失礼しますね」 「うん……」  お辞儀をして逃げるように隣の家に向かった。  道に出て大きく肩で息をする。 (俺あの人といるとおかしい。なんだろう、この気持ち………)  ふつふつと沸き上がってくる感情の正体に、志朗はまだ気づかないでいた。
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