1,スズランの毒

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1,スズランの毒

カオリは4歳の娘サラと、庭に向かって開放されているテラスで午後の日差しを浴びながら、お茶を飲んでいた。 カオリはミルクを入れたコーヒー、サラはオレンジジュース、それにナッツやフルーツがいっぱい入ったパウンドケーキが飲み物に添えられていた。 道路まで思いっきり広がっている庭は道路との境に低木が植えられているほかは、一面花が咲き乱れていて、多彩な色の合唱を五感全体で観賞することができた。 街中に暮らしながら、こんなに花々が咲き揃った広い庭を持てるのは幸せだと、カオリは思っていた。 しかしテラスに座って庭の花々と交歓する満ち足りた時間は、1年前のR国との開戦によって寸断された。 日増しにR国の爆撃の回数が増え、ミサイルの警報(アラート)が元来平穏であった街の空気を震撼させるのは、連日のこととなった。 以前の平和な時間をお茶の時間(ティータイム)だけでもとどめておきたい。庭に咲く花々がその魅力を寄せ集めて妖精を生み出して、この時間を永遠に引き延ばしてくれないものか。 カオリがコーヒーの香りに包まれて想いに浸っていると、「ダメだ、サラ!」という切迫した叫び声が彼女を我に返らせた。 それは仕事が休みで在宅している、夫のダン・クラークだった。 気付くといつの間にかサラはテラスから庭に下りて、蜜蜂のように花々の間を飛び回って、今、白い小さな鈴のような花を手にしてテラスに戻ろうとしていた。 夫が何がダメだと叱責しているのかカオリは理解できず、自分の方へ向かってくる娘を抱きとめようと腕を広げた。 サラは父親の叫び声に怯えて、本能的に母親の腕の中に飛び込んだ。 「ダン、一体どうしたの、何がダメなの?」 カオリは咎めるような口調で夫に尋ねた。 「その花だ、サラ、それを庭に捨てるんだ! そして手をよく洗いなさい」 サラは可憐な花に名残惜しそうな一瞥をくれたが、父親の命令に従って庭に放り投げた。 「スズランじゃないの。こんな可愛い花なのに」 母親のかばうような言葉に、サラは勇気をえて言った。 「食堂のテーブルに飾ろうと思ったの」 テラスの2人のいる場所に近付いたダンは、サラの怯えたまなざしを見下ろして、ふーっと溜息をついた。 そこには娘を気遣う気持ちが込められていたが、滅多に笑わず冗談も言わない生真面目な父親に咎められると、サラは委縮してしまうのだった。 妻のカオリはその生真面目さが端正な容貌と結びついて生まれるダンの魅力を熟知していたが、4歳の娘にはそれは無理な話だった。 「あのな、その花を挿したコップの水を飲んだ3歳の女の子が死ぬという事件が、昔あったんだ」 ダンはそれを信じざるを得ない真剣な表情で言った。 「スズランに毒があるっていうの?」 「そう。心臓毒、強心配糖体という毒だ。少量だと強心の薬にもなる。ジギタリスやクリスマスローズにも含まれている」 ダンは生物研究所の植物セクションで働いていた。 都市の郊外の森と接するあたりにある生物研究所は広大な敷地を持っていて、その敷地は動物研究と植物研究に折半されていた。 植物研究の土地には畑や温室、植物園などがあり、世界各地から集められた多種多様な植物が栽培されていた。 植物園の一画には薬草園があり、その管理をダンが一任されていた。 ダンが、美しく咲く花々よりも植物の持つ毒に興味があることを、カオリは知っていた。 毒と薬、清濁あわせもつ植物に、ダンは屈折した憧憬を抱いていた。 善と悪、愛情と憎悪、といった2つの相反する要素を、動かず物も言わない一見淡白なっ植物が有していることに、彼は興味をそそられた。 薬草園では、ラベンダーやローズマリーといった香りのよいハーブのほかに、ベラドンナやトリカブトなどの毒草を栽培していた。 自宅の庭園の管理はもっぱらカオリに任せていたが、カオリは見た目の美しさを尊重する女性らしい視点で、色彩のきれいな花をメインに植えていた。 しかし、そんな善良な花たちの中に毒が混じっていたとは……。カオリは唖然とする思いだった。 バラは庭園にはなくてはならないという熱い気持ちから、バラ園というコーナーを設けて育てていたが、トゲからサラを守るため柵で囲った。 詩人のリルケがバラのトゲが刺さったのが原因で死んだという逸話はダンもカオリも聞いたことがあり、どちらも慄然とする思いは共通していた。 特に2人ともサラへの愛情にかけては引けをとらず、万が一サラがバラのトゲを刺したりしては大変だということで、バラ園に柵を設ける案はどちらからともなく言い出したのだった。
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