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「いらっしゃいませ」
扉を開けると、空気が違った。ストーブと陽射しで丹念に暖められた空気の中を、ふわふわと小さな埃が舞う。本の森が創った酸素と二酸化炭素がそこに満ちている。
図書室に入って右側でカウンターの奥に腰掛ける司書の若い女性に小さく会釈した。彼女はこの部屋の空気によく似合う、穏やかな微笑みを浮かべた。
「初めてのご利用ですか?」
「ええ」
「来てくださってありがとうございます。どのような経緯でここをお知りになったんでしょう」
彼女の声は柔らかで、図書室の閑けさを全く邪魔しない。自分と同じくらいの歳に見えるが、その声や振る舞いには熟練のものを感じた。
「いえ、ふと目に入ったものですから」
「素晴らしい巡り合わせです」
彼女はもう一度感謝を口にした。
「いくらでもご覧ください。心ゆくまで」
「ありがとうございます」
図書室はそこまで広くない。陽射しの入るカウンター側とは違い、本棚のある左側はなんだか鬱蒼としている。狭い部屋に天井まで届く本棚が並べられ、人一人通れる程度の細い通路が間にあった。通路は薄暗く、この部屋の空気と時間をさらに凝縮して穏やかに澱んでいる。
本棚には沢山の本が詰められていた。しかしそれは、本たちがそれぞれ全く違う思いを抱えながらも身を寄せ合っている、絶妙な間隔だった。本を抜くときも、程よい力加減で、す、と抜ける。本一冊無くなった隙間が寂しく見えることも、消えてくれてよかったと言わんばかりにその隙間で隣の本が羽を伸ばすこともしない。
本棚として最高のバランスが保たれていた。恐らく先程の彼女の優れた働きによるものだろう。
「ここにはどれくらいの本があるんですか」
私が尋ねると、彼女は何かの作業の手を止めてこちらに近づいてきた。
「全ての本です」
「全て」
繰り返すと、彼女ははっきりと頷いた。耳にかけた長い黒髪がさらりと落ちる。
「はい。この世界にある全ての本です」
目の前の本棚を見つめる。知らない題名、知らない作者のものばかりだ。
「この図書室に、ない本はございません。どんな本だってあるんです」
そうなんですね、と息で答える。
「この部屋になければ、書架があります。私はそこからどんな本も持って来られます」
私を見つめる彼女の瞳は大きく、静かに潤っている。
あなたは、どんな本をお探しですか。
彼女は本当に声を出してそう言ったのかもしれないが、それはあまりにもこの部屋の閑けさに紛れていて、私の心に直接届いたかのようだった。
私はどんな本を探しているのだろう、と考える。
隣で彼女が微笑んだ気配がした。頬を動かした分だけ、空気が揺れる。
「本が消えてしまうことはありません。どうぞごゆっくり、あなたの本をお探しください」
「……ありがとうございます」
「何かありましたらいつでもお呼びくださいね」
彼女は一礼してカウンターに戻る。
切り替えのサイドプリーツがおしゃれな深い紺色のワンピースを着ていた。触り心地が良さそうなスウェード調の重厚な布の中で、軽やかなプリーツ部分だけがクリーム色の布で、捲れた本を思わせる。ワンピースと一体になっている布のベルトは、本のスピンを彷彿とさせるようなワインレッド。見頃の真ん中には金色のボタンが控えめに光を反射しながら行儀よく並んでいた。そこには何が書かれているのだろう、と手を伸ばしたくなるような魅力的な本だ。
私は彼女から視線を戻し、再び本の森の散策を始めた。
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