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工事の大きな音も、鬼ごっこをする子供らの笑い声も、どこからかする夫婦の激しい口喧嘩も、本が消し去る。私はこの世界から消えて、本の差し出す世界へ行く。文字の間に閉じ込められた世界が、待っていましたとばかりに飛び出して私を連れて行く。
ここにいればもう、大丈夫。誰も私を連れ戻しはしない。
私はその図書室に何度も足を運んだ。窓の外ではいつもしんしんと雪が降っている。雪もまた、音を包んで沈んでいった。
「よく来てくださって嬉しいわ」
「ええ、私、すっかりここが気に入ってしまったの」
「あなたのようにしっかりと本を見てくださる方がここ最近は少なくなっていて。皆見向きもしないか、せっかく見つけても早足で通り過ぎてしまうのよ」
「そんな。こんなにも芸術的な本棚なのに」
そう言うと彼女は自分の容姿を褒め称えられたかのように頬を桜色に染めて含羞んだ。
「でも私、どんな本を探しているのかわからないの。それに、なんだか答えに辿り着いたら、もうここへ来られなくなってしまうんじゃないかって、そんな気がして」
「そんなことないわ。何度だって来ればいいのよ。そして何度だって探している本を見つければいいの。だって、人生の中で必要とする本はその時時で違うんですから」
「そうね、その通りだわ」
そう答えつつも、私はどんな本を欲しがっているのか、どうにもわからなかった。
「ねえ、お勧めの本はないの? あなたがどんな本を勧めてくれるのか、興味があるわ」
彼女は小さく首を傾げて言った。
「私がこの部屋に置いているものが、お勧めの本よ」
「ここは小さい図書室だけど、それでも多すぎるわ。一つ挙げるとしたらどれ?」
「あなたがなんとなく手にした本よ。あなたはそうやってここへも来たんでしょう?」
こんな風にお喋りをしていても、図書室の閑けさは決して揺るがなかった。
「それじゃあ書架に仕舞われている本は? お勧めではない本が仕舞われているの?」
「書架の本は、誰かが本当にそれを必要とした時に出す本なの。世界で一番静かな場所で閑けさに抱かれて、必要とする人をじっと待っている。お日様の下に晒したらすぐに燃えて灰になってしまうような、そんな繊細な本が、書架には数えきれないくらい眠っているのよ」
ふうん、と私はわかったようなわからないような返事をした。
そうして、ふと思い出した。
「あの本はないかしら。私が昔、好きな人に貸してもらって読んだ本なのだけれど」
彼女は元よりいい姿勢をさらに正し、全てに置いて完璧な姿勢をつくって尋ねた。
「どんな本でしょう。この図書室に、ない本はございません」
彼女はこの図書室の司書である誇りを胸にそう告げる。私も、ああそうだ、ここにない本はないのだ、と安心してその本を求める。
「その方の書く小説は、それを必要としている人にそっと寄り添う、ひそやかな小説だと言われていたの。書架の話を聞いて思い出したわ。彼はその方の小説が大好きで、沢山お勧めしてくれた。私はそれに応えて沢山読んだ。彼と同じことで盛り上がりたかったのね。『同じ本で育った人たちは共通の思いを分かち合う』と言うもの。……ある時彼が、私に本を貸してくれたの」
彼の思い出は、彼の声がそうだったように、記憶の中の静かなところに眠っていた。私はそれを一つ一つ辿っていった。私が好きだった彼と、その本を巡る思い出について最後まで話さなければ、私が求める本は得られないと感じたのだ。彼女も、正しいたった一つの本を持ってくるために話を注意深く聞いていた。
「承知いたしました。書架から持って参りますので、お待ちくださいませ」
「はい、お願いします」
儀式のように私が下げた頭を上げると、そこにもう彼女はいなかった。この部屋に詰まった空気が動くことも、ドアが開くこともなかった。
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