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忘れもの
8月27日(土)の夜、時空間旅行への招待状が届いた。
1889年パリ万博へ行った父は、何を思って旅行先を選んだのだろうか。
父はバイオリンの弓を残していった。
タイムマシンで過去に遡る者は、一つだけ持ち帰ることを許される。
それがなぜ───
母も心当たりがないようだ。
物心ついたときには亡くなっていた父を、香苗はあまりよく知らない。
だからこそ、少ない手がかりを手繰り寄せ、人間像に迫りたい。
考え込むとなかなか寝つけなくなり、朝まで眠りに落ちなかった。
社運を賭けたキャンペーンに関わっている今、仕事も手を抜けない。
寝不足の身体を引きずって、翌日も休日出勤だった。
「行ってきます」
朝食を腹に詰め込み、いつもの時間に家を出た。
休日ダイヤだと忘れていたので、すぐに電車がこなかった。
スーツ姿のサラリーマンの姿は少ない。
見慣れたホームが、やけにこじんまりしてみえた。
ポスターとデジタルサイネージが目につき、つい仕事のことを考えてしまう。
週末には、電車の車両とサイネージを使ってキャンペーンの写真と映像が流れるだろう。
企画部らしい仕事は、すでに終わっている。
キャンペーンの戦略はすでに固まっていて、キャッチコピーとCMを統一した広告が世の中に溢れる週末がくる。
後は納品された物を予定通りに仕分けしていくだけである。
どんな仕事でも、輝く理想を描いたビジョンの裏に、地味な部分がある。
「やりたい」という気持ちに100%答えてくれる仕事はない。
単純作業を繰り返す人生にはしたくない。
そんな思いで企画関連職を高校生のときから心に思い描いてきた。
他人を幸せにするとか、笑顔がやりがいとか、陳腐な理想では長続きしない。
世の中にない物を作りだす。
今一番人気があると言っても過言ではないクリエイティブ系の仕事の中でも最も難しくてやりがいがある職種である。
必死に勉強して、勝ち取った先に倦怠感を感じつつある自分がいた。
「疲れているのかな」
ため息をついて、ホームの点字ブロックを見つめていた。
もしかすると、タイムマシンで過去へなど行かない方がいいのかもしれない。
父の面影を感じて興味はあるが、物事はミステリアスな謎が残っていた方が意味深いのかもしれない。
過去に戻って何があったのか、知りたいという気持ちが成就された先にどんな景色が広がるのだろう。
誰もが憧れる企画関連職で成功しつつある、自分に飽き始めた現状と重ねてしまう。
山に登るとき、頂上を目指すときには未知の景色を期待し、心が踊る。
頂上に立った瞬間に、憧れが目の前の現実に変わり、小さな景色に成り下がる。
きっと100年以上前のパリへ行っても、心に同じ現象が起きるだろう。
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