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ひとだ。
黒いものは集まって固まって凝縮されて、確実に俺がよく知っているものの形になった。それを人だと認識してからは加速度的に。
ふわふわと綿毛のようだった表面ははっきりとした輪郭を持つ中身の詰まった質感に。だらりと垂れた両手や、路面を踏む両足には確かな重量感を感じる。
それをどう表現したらいいのか。一番近い感覚は、カメラのピントが完全にぼやけた状態からくっきりとクリアになっていくようなそんな感覚だった。
おとこのひとだ。
完全にピントがあうと、そこには若いサラリーマン風の男性がいた。
全体が黒いのは変わらないのだが、スーツを着ているのがわかる。両腕をだらりと身体の横に垂らして、左手は惰性のように開いたまま、右手は何か握っているようにむすばれている。
バスケットボールより少し小さいと思っていた頭は、ぼさぼさとまではいわないが、少し髪が乱れている。俺の方を向いてはいないから、表情は見えない。ただ、真後ろにいるわけでもないから、顎のラインが少しだけ動いているのが見て分かる。
なにか、しゃべっているんだ。
そう思うと同時にぶつぶつと何かを呟く声が聞こえるようになる。
ききたくない。
何を言っているのか聞こえてしまうのが怖い。聞いてしまったら、きっと、何かとんでもなく悪いことが起こる。そんな気がする。
俺は、反射的に耳を塞ごうとした。
その瞬間。つま先に何かが触れた。
こつん。と、小さな音を立てて、小石が転がる。
それは、ごくごく小さな音だったはずだ。けれど、かつて靄のようだったサラリーマン風の男は、首の上に乗るバスケットボールより少し小さい球体。頭を僅かに動かした。
自然な動作だった。暗い道にいて背後で物音がしたら、誰でもそうするだろう。そんな普通の仕草で男は振り返ろうとしたんだ。
だめだ。だめだ。
けれど、それは俺にとっては致命的と言っていいほどの出来事だった。
目があったらヤバい。
暗闇の帰り道。靄のように突然現れた男。ぶつぶつと呟く声。
これが、嫌な予感と言わず何というだろう。
目があったら絶対にヤバい。少しでも防衛本能があるものなら、誰でもそう思う。きっと、恐ろしい目に合う。最悪、行方不明とか、惨殺死体とか、呪われるとか。
逃げなきゃ。
こんなとき、大抵のホラー小説なら脚は金縛りにあったように動かないものなのだろう。御多分に漏れず俺もそうだった。
逃げないといけないと分かっているのに、身体が動かない。
男がゆっくりと振り返る。
その後ろ姿が、横顔になり、両方の目が、俺の方に向いた。
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