ルフェール~魔王の課外授業④~

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「また下がった……。しかも前日比20%だ。何とかしなければ、何とか……」  ルイ・マルタンは、小麦の取引価格を眺めながら頭を抱えた。小麦だけではない。大麦やトウモロコシ、ジャガイモなど、あらゆる農産品の価格が下がり続けているのだ。農業・食料省の事務方トップとして看過できない事態だった。野党からの突き上げが厳しくなり、獅子王(ししおう)の苛立ちは頂点に達している。今日も電話で怒鳴り散らされるはずだ。  F国が農業の強靭(きょうじん)化に舵を切ったのは十二年前だ。このような異常事態に見舞われるとは、当時のルイには想像もつかなかった。ルイだけではない。世界の知識人は皆、真逆の悪夢を思い描いていたのだから……。  ルイは、頭の中で時計の針を十二年前へと巻き戻す。当時の国連は、世界の人口が八十億人を超え、二〇二五年には百億人になるだろうと予測していた。地球はやがて深刻な食糧危機に襲われる。そう専門家は口をそろえた。戦争や異常気象も危機感に拍車をかけていた。 ———食糧は、戦略物資になる。石油と肩を並べる戦略物資に……。  ルイは確信した。F国はもともと世界有数の農業立国である。政府は伝統的に農家を手厚く保護してきたが、ルイは、さらなる支援と保護によって農家の生産力を高め、輸出競争力を向上するべきだと上司に訴えた。国内で消費しきれない農産品はいくらでも海外で売れるようになる。しかも言い値で。世界は飢えているのだ。  当時のルイは、農業・食料省の中堅幹部に過ぎなかった。己の政策を実現するには、何人もの上司を説得しなければならない。農家の支援と強化は、追加で多額の補助金を支給することと同義だ。国庫は決して潤沢ではない。支出増を伴う政策に上司は渋い顔をした。 「補助金を上回る歳入増が期待できるのです。ためらうことはないでしょう」 「失敗すれば財政が破綻する。『保護主義的な政策だ』と欧州連合にまたうるさく言われるしな……」 ———臆病者めが……。  ルイは内心で舌打ちし、上司を呪った。しがない行政区の小役人だった父親のようにはなりたくないと血反吐を吐くほど勉強して中央省庁の官僚になったのだが、前例主義と保身でがんじがらめなところは行政区も中央省庁も変わらない。しかも、選挙で選ばれたと威張り散らす無能な政治家の言いなりだ。阿呆な政治家と、目先の暮らしで頭がいっぱいの愚かな有権者にペコペコして死んでいった父親の人生には一体どんな意味があったのだろうか……。 ——馬鹿げている。実に馬鹿げている。衆愚政治の行き着く先は滅亡しかない。これでは、飢える民をよそに高価な弾道ミサイルを海にぶち込んでいるどこぞの独裁国家の方がよほどましだ。意思決定のコストが安い分だけな……。  いずれトップに昇りつめて大改革をしてやると、ルイは改めて決意した。この国にはが必要なのだ。だが、そのためには実績を積まなければならない。「On n’a qu’une vie(人生は一度きり)」道を切り開くには勝負を仕掛けるしかない。 ———説得できないのであれば、自ら意見を変えてもらうまでだ。  ルイは、大学時代のをたどり政界に近づく。ターゲットは「農業族」のドンと呼ばれるレオ・ランベールだ。鋭い眼光と威圧的な風貌が、レオの名前の語源である「lion(リオン)=ライオン」に似ていることから、「獅子王(ししおう)」の異名で呼ばれている。獅子王は農業・食料相の座をライバルに奪われ、虎視眈々(こしたんたん)と巻き返しを狙っていた。大統領選に野心を燃やしているとも噂されている。ルイは、獅子王が起死回生の一手を血眼になって探しているはずだと踏んだ。  ルイは、獅子王の政策秘書を務める大学時代の友人に頼み込み、企画書を売り込んだ。 「頼む。この政策が当たれば、獅子王の復活は間違いない。大統領も夢じゃないぜ。世界は飢えているんだ。必ず当たるよ」 「渡すだけだぞ。こういう売り込みはこれきりにしてくれよ」 「ああ約束する。恩に着る」  ルイは、カフェのテーブルに頭をこすりつけんばかりにして謝意を示した。「また会いたいって言うさ、おまえの方からな」と内心でつぶやきながら……。  ルイの予想は的中した。獅子王がルイの政策に食いついたのだ。政治家は、わかりやすいバラマキ政策を好む。有権者に受けがよいからだ。しかも、ルイの政策には「世界的な食糧危機の解決に貢献する」という大儀がある。耳障りもよい。  獅子王は、「農業の強靭化」を目玉政策に掲げて大統領選に打って出た。北の大国が隣国に攻め入り、穀物価格が高騰していた時期だ。国民はこぞって獅子王を支持した。獅子王は圧倒的な得票数で大統領になり、ルイは「ブレーン」として重宝されるようになった。シナリオ通りの大逆転劇。F国の穀物は飛ぶように売れ、国庫は潤った。農家にばら撒いた補助金など、回収して余りあるほどの歳入が転がり込んできた。  獅子王は大いに喜び、日に陰にルイを支えた。ルイも獅子王に忠誠を誓った。獅子王自慢の一人娘、ジャドと結婚したのは自然な流れだった。ジャドは年上で、エマという小学生の娘がいた。親子はそろってプライドが高く、湯水のように金を使うが、ルイは痛くも痒くもなかった。政略結婚は、獅子王との同盟関係を強固にするために必要な代償なのだ。いずれ獅子王の地盤を継いで政界に進出し、大統になるのだから……。  農業・食料省の上司は手のひらを返したようにルイを厚遇した。もはや役所でルイに異を唱える者はいない。ルイはとんとん拍子で出世した。全てが順調だった。  獅子王との同盟にほころびが見えたのは、獅子王が二期目を賭けた大統領選に勝ち、権力基盤をいよいよ盤石にしようとしていた矢先だった。穀物の価格が突如、暴落したのだ。小麦の値下がりは特にすさまじかった。野党は、大統領の失政を攻撃した。  獅子王は、名声を不動のものとしたはずだった。それが一転、「暗君(あんくん)」呼ばわりされたのだ。獅子王の怒りはすさまじく、大統領府にルイを呼びつけて激しくなじった。 「なんとかしろ! 誰のおかげで農業・食料省のトップになれたと思っているんだ!」  獅子王の異名は伊達(だて)ではない。一介の役人であれば、この一喝で縮み上がり失禁してもおかしくないだろう。だが、ルイにとってこの程度の面罵(めんば)は日常茶飯事で、蚊に刺されたようなものだった。 「ご安心ください。奥の手があります。価格はすぐに戻るでしょう」ルイは胸を張ってみせた。  もちろん口から出まかせを言っただけだった。万策尽きた結果の暴落だったのだ。獅子王に三文芝居は通用しないとルイは知っている。看破されれば、別の言い訳を並べて時間を稼ぐつもりだった。だが、予想外にも獅子王は満足そうに笑った。 「大方、AC(アーセー)に買い取らせるのだろう。それでこそ、俺の後継者だ。慈悲はいらんぞ。こういうときのためのACだ。思い切ってやれ。俺が勇退するまではなんとしても価格を維持しろ」 ルイは安堵して言った。「さすがですね。もう手は打ちましたのでご安心ください」
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