ルフェール~魔王の課外授業④~

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 コツコツという音でクロエ・ヴォアザンはいつものように目覚めた。つがいのChardonneret élégant(ゴシキヒワ)がくちばしで窓をつつく音は、クロエの目覚まし時計だ。クロエがアザミの種を与えたのが先だったか、ゴシキヒワたちがクロエを起こしてくれるようになったのが先だったか、もう覚えていない。いつからかクロエの一日は、二匹の野鳥に、寝坊しないで済んだお礼の餌を与えることから始まるようになった。  ストレスのせいで眠りが浅くなったためか、最近、クロエはいつも同じ夢を見る。それは幼かったころの記憶の断片なのかもしれない。クロエは両親に手を引かれて樹海のような暗い森を抜け、ひときわ大きな木の中に。その巨木はエッフェル塔のように高く、見上げてもてっぺんがどこにあるか分からない。空には真っ赤な月が煌々(こうこう)と輝いている。三人は、デパートのエレベーターのような乗り物でぐんぐんと木の中を上昇する。 「ここはお(とぎ)の国なの?」  クロエは興味津々で両親に尋ねるが、二人は一言もしゃべらない。両親はひどく緊張していて、それがきつく握られた手からクロエに伝わってくる。乗り物の扉が開くと、誰かがクロエたちを出迎えた。顔は思い出せない。そこで記憶はぷっつりと途切れているらしく、クロエはきまって夢から覚めるのだ。  ゴシキヒワは、頭部にある鮮やかな赤黒の模様と、鳴き声が美しい。片方は模様が小さいので雌だと分かる。夫婦は今日も並んでおいしそうにアザミの種をついばんでいる。  窓から晩秋の冷たい空気が部屋に流れ込み、夢うつつの中にあったクロエの頭が次第に冴えてくる。 ―――休んじゃおうかな……。でも、コアンに本の感想を聞きたいし……。  庭園の木々から色づいた葉がはらはらと地面に落ちる様子を眺めながら、クロエは逡巡(しゅんじゅん)した。ゴシキヒワたちが「ツィリッ、ツィリッ、ツィリッ」と(さえず)りながらクロエを眺めている。  クロエにとって自分の部屋はこの世で唯一、安らげる場所だ。たちとかかわらないで済むたった一つの安全地帯。ドアには常時「ne pas déranger(邪魔しないで)」と書かれた大きな札を掲げてある。札がある限り、誰もドアをノックできない決まりだ。たちは食事をドアの前に置いて立ち去ったし、もドアの隙間からメモを差し入れるだけで我慢した。約束を破った者は即解雇すると通告してあるので効果は抜群だ。  そうやって接触を避けるからだろう。クロエがひとたび自室を出ると、黒い重役たちがやってきて、クロエを質問攻めにした。タイミングよく現れるところをみると、彼らは、執事やメイドにカネを握らせてクロエを監視させていると推察できる。実に不愉快だ。 「部屋の中から盗聴器の類が見つかったときは、メイドと執事だけでなく、重役全員を解雇する」とクロエが脅しても、黒い重役たちはへこたれない。連日のように押しかけてきて、株式がどうとか、議決権がこうとか、信託財産が何だとか、口角泡(こうかくあわ)をお飛ばしながら熱く語り、クロエを困らせた。クロエはただ相手の心の色を見て、恐ろしく黒いときは何を頼まれても断固拒否し、黒味が薄い時は恐々と書類にサインをした。  恐怖や怒り、喜びや願望……。強い感情が溢れそうになると、クロエは目を閉じて、母親に教わったおまじないを心で唱える。「落ち着いて、落ち着いて。一、二、三……」  呪文が効くとトラブルは起きない。昨日はうっかり呪文を唱えるのが遅れて、万年筆がぐにゃりと曲がってしまった。黒い重役たちは不思議そうに万年筆を眺め、代わりの万年筆をクロエに握らせた。  学校ではいじわるな同級生の前でチョークを爆発させたことがある。最も失礼があってはならない人物だったので、クロエはあっという間に村八分にされてしまった。「もっと効果のあるおまじないを教わっておけばよかったな……」もう取り返しが付かないと分かっていても、クロエはつい考えてしまう。
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