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「しまったなあ……アルバイトして中古を買うかな……」
コアンは弾力を失ったボールを拾い上げて力なく言った。クロエの体がかっと熱くなる。コアンは、F国語の勉強だけでもたいへんなのだ。プロを目指してサッカーの練習もしなくてはならない。アルバイトなどしている時間があるはずない。
「貸して……」クロエの手が無意識にボールに伸びる。何をしようとしているのか自分でも分からなかった。ただ、コアンのために何かしてあげたいという強い思いが込み上げてどくどくと溢れた。すると、クロエの手のひらでボールが鈍い鋼色の光を放ち、みるみると弾力を取り戻していった。擦り切れた表面も新品のようにきれいになった。クロエはしまったと思ったが、時すでに遅しだ。コアンの顔を見上げてボールを差し出すしかなかった。
「あ、あの、これ……」
コアンの目に恐怖の色が浮かんでいるのを見て、クロエはぎくりとした。母親の言葉が脳裏をよぎる。「誰にも話してはだめよ」。
———どうしよう、どうしよう……。
二人は気まずいムードで無言のままとぼとぼと歩いた。コアンはもうボールを蹴らなかった。
———何か話しかけなきゃ、何か……。
気持ちは焦るが、言葉が思い浮かばない。校門が目前に迫ったとき、クロエは思い切ってコアンに声をかけた。
「あのね、さっきのあれは、私にもよく……」
コアンが背を向けたままでつぶやく。「やっぱりクロエは特別な人なんだね。いつも一人で毅然としているし、クラスメイトに冷やかされても僕に親切にしてくれる。すごいよ。君は神なの、それとも……」
クロエはめまいに襲われた。コアンの背中が急に遠くなる。
———違う、違うよ。
叫びたいのに声が出ない。世界がくしゃくしゃに歪み、ひどく滲んでよく見えなくなった。クロエは校舎に背を向けて走り出していた。
どこをどう歩いたのか覚えていない。気が付けばクロエは、パン屋の前にたたずんでいた。幼い頃、両親と暮らした思い出の店。相変わらず繁盛していて、見覚えのある客が買い物をしながら、カウンターを挟んで店主夫妻と話し込んでいる。
思い出すのは、クロエが幼いころの両親ばかりだ。一番幸せだったころの記憶は全て、両親が経営していた小さなパン屋で過ごした日々だ。早起きしてパン生地をこね、焼き立てのパンを店先に並べ、一家の一日は始まる。
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