ルフェール~魔王の課外授業④~

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 焼き立てパンの香ばしい匂いが通りに満ちると、さまざまな色を身に(まと)った、気の置けない近所の人たちが笑顔でパンを買いに来る。小さな店はあっという間に客で満杯だ。クロエも一生懸命に手伝った。仕込んだ生地は夕方にはほとんどが売り切れて、三人で一日の出来事を語らいながら夕飯を食べる。売れ残りのパンとスープがメインの質素な食事だったが、食卓にはいつも笑い声が溢れていた。 「二丁目のグルメおばさんがね、クロワッサンの味が変わったと言っていたわよ」 「発酵バターを変えたんだ。元に戻そうか?」父が心配そうに母に尋ねると、母がきょとんとして答える。 「どうして? 前より美味しくなったって言っていたのに」 「何だそりゃ。それを先に言ってくれよ。肝が冷えたぞ。な、クロエ」 「うん! パパのクロワッサンは世界一だもの!」 「それよりも、床屋のMonsieur(ムシュー)だよ。あの渋い鈍色(にびいろ)が今日は少し黒ずんで見えた。体調でも悪いのじゃないか」 母がこくこくと頷きながら答える。「実はね、奥様が寝込んでいるみたいなのよ」 「君はいつも肝心なことを後で言う。この野菜たっぷりのこのスープを持たせてあげたかったなあ」 「賛成! ムシューに全部あげて、私たちはお肉のたくさん入ったスープを作ればいいのよね!」両親はクロエの提案を笑って歓迎した。  パン屋の二階は狭く、セミダブルのベッド以外に家具らしい家具もなかったが、三人で川の字になって眠るのが何よりも楽しみで、クロエはいつも、この世には何の災いもないような安心感と幸福感に包まれてぐっすりと眠った。  そんなクロエの暮らしが変わったのは、小学校を卒業するころだった。両親が突然、パン屋の経営を友人に譲って会社を興し、穀物取引を始めたからだ。両親は才能を開花させてあっという間に商売を軌道に乗せた。暮らしはみるみる豊かになった。誕生日やクリスマスには、クロエが望む物が何でも与えられた。  物質的な豊かさがもたらす高揚感はすぐに色褪せる。クロエが、日々豪華になっていく食事や洋服に心を躍らせたのは、ほんの数年。両親が仕事で不在がちになると、クロエは広いダイニングにぽつんと座り、メイドが(こしら)える食事を機械的に食べることが多くなった。一流ホテルのスイートルームのような自室のベッドにもなかなかなじめず、「昔のパン屋に戻りたい」と泣きわめいてパパとママを困らせた。  パン屋の店主夫妻はパパとママの友人らしいが、クロエはよく覚えていない。でも、きっといい人だ。心の色はきれいな淡いグリーンとピンク。ご主人はなかなかのハンサムでもある。夫妻に顔立ちが似た子どもたちが陳列棚にパンを並べているのを見て、クロエの内側に懐かしさが込み上げてくる。幼いクロエの仕事も焼き立てのパンを並べることだった。パンを積んだトレイを抱え、あの頃の自分が今にも調理場から飛び出してきそうな気がした。  店主がクロエに気が付き、会釈した。クロエは慌てて頭を下げ、逃げるようにその場を立ち去った。
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