ルフェール~魔王の課外授業④~

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 笑顔で店のドアを開けて「こんにちわ」となぜ一言あいさつできなかったのだろう。クロワッサンの一つでも買って「おいしいですね」とほめてあげればよかったのではないだろうか。クロエは自問した。  冷静に考えれば、そうするべきだったと思う。でも、店主の笑顔を見て、心が強い拒否反応を示したのだ。うらやましかった。幸せそうな夫妻が。うらめしかった。あの店を手放してしまった両親が。そんな自分が情けなかった。幸せだったパン屋での暮らしは、あの頃の私とともに永遠に失われてしまったのだとクロエは改めて思い知らされた。  パン屋になんて来なければよかった……。クロエは後悔したが、無意識の選択だったのだ。どうしようもない。部屋に戻る気にはなれなかった。自分が望んで周囲の人たちを遠ざけてきたとはいえ、今は広い部屋に一人でいるのがつらかった。学校にも戻れない。コアンの顔を見るのがつらいから。  街をぶらつき、公園でサンドイッチを食べて、また街を彷徨う。疲れて足が動かなくなり、夕暮れが近いと気づく。クロエは、ふらりと侵入した古いビルの屋上で日没を眺めながら、ふと「Le Petit Prince(星の王子さま)」の最後のシーンを思い出した。王子さまが蛇に噛まれて、魂となって故郷の星に戻る場面だ。大切なバラの花が待つ故郷の星に……。  クロエは鞄からノートを取り出し、薄明りを頼りに遺書を綴る。「私の財産は全てコアンにあげてください」。法的に有効なのかどうかはわからないし、黒い重役たちに握りつぶされるかもしれない。でも、何もしないでこの世を去りたくなかった。 ———パパとママは悲しむだろうな……。がっかりして、後を追ってきた私を拒むだろうか。ごめんなさい。でも、もう無理なの……。  クロエは靴を脱いで鞄の横に置き、フェンスをよじ登る。ビルの下は真っ暗で何も見えない。野鳥の群れが家路を急ぐように夕闇を飛び去った。クロエは、ゴシキヒワを思い出して心でつぶやく。餌をくれる優しい人を見つけてね。さようなら……。クロエは目を閉じて暗闇に体を投げ出した。
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