16人が本棚に入れています
本棚に追加
冷たい空気を切り裂き、真っ逆さまに落ちていく。そう感じた次の瞬間、クロエは誰かに抱きかかえられたような気がした。それは、母に抱きしめてもらった時の感触に似ていた。柔らかな胸に顔を埋めると、とても安らかになったことを覚えている。
「間一髪じゃ。間に合ってよかった……」
女の声がしてクロエを抱きしめる力が強くなる。クロエの頬に暖かい雫が落ちた。体がふわりと浮いたような気がして、クロエは見知らぬ誰かの胸に顔を埋めたまま目を開ける。視界の端に街の明かりが見えた。渋滞で車のヘッドライトがのろのろと行き来しているためか、通りはひときわ明るい。クロエはようやく自分が空を飛んでいるのだと気づいた。細長い板のような物に乗って、名前も知らない女といっしょに。
———私は助けられたの? この女の人に?
答えを求めるようにクロエは恐る恐る顔を上げ、女の真っ赤な瞳にぎくりとする。月を背にしているので、表情はよくわからない。長い髪が風にたなびき、月明りに照らされた部分が白銀色に輝いている。
「あ、あなたは、誰ですか……」クロエの声はひどくかすれていたと思う。
真っ赤な目の女が言った。「アルチーナ、アルチーナ・ダスピルクエット。おまえのおばあちゃんじゃ」
アルチーナと名乗る女とクロエを乗せた板は、クロエが飛び降りたビルの屋上にひらりと舞い降りた。乗っていた板の正体がサーフボードだったと知り、クロエは唖然とする。アルチーナが、鞄と靴を拾い上げてクロエに差し出した。
「それ、忘れ物じゃ。地球時間で十二年ぶりの再会じゃな、クロエよ」
十二年ぶり……。クロエは記憶を呼び起こそうと、アルチーナをまじまじと観察した。晩秋だというのに、半袖、短パンの黒い革のつなぎからすらりとした手足を出している。ぱっくりと開いた胸元からは乳房がこぼれおちそうだ。切れ長の大きな目と薄く開いた唇は妖艶でも、表情はどこかあどけなく、クロエと同い年くらいにしか見えない。十二年前であれば小学生だ。こんな美人に成長するならば、さぞかしかわいかっただろうと思うが、全く思い出せなかった。
「全然、覚えていない……。それよりも、私のおばあちゃんてどういうこと? 同い年くらいにしか見えないけど……」
「覚えておらんか? パパとママと一緒に来たじゃろ。先代の執務室に。『次元の扉』をくぐって人間界に行くときじゃ。私が、お前たち親子を光速エレベータの前で出迎えた。まあよい。とにかく、私は今、魔王をしておる。魔界はこんなに小さくなってしまったがな……」アルチーナが胸の谷間から大きな黒い宝石を取り出して見せた。
「大きな戦が起こりそうになったので、先代は魔界をこの宝石に閉じ込めて封印すると決めた。民の多くを人間界に移住させてな。お前たち親子もそうじゃ」
「先代は言われた。魔界の民は皆、魔界の王である魔王の子供じゃと。だから世界中を飛び回って、私は子供たちの世話をしておる。『子供を育てる』は先代から与えられた課題でもあるのじゃ。クロエは子供の子供じゃから私の孫ということになる。どうじゃ、わかったか?」
魔界……魔王……次元の扉……人間界への移住……。私は人間ではないの? それってどういうことよ……。クロエの頭の中はぐちゃぐちゃで、何を質問してよいかさえ分からない。アルチーナは、ぼろぼろと涙を流すクロエの頭をなでながら言った。「時間をかけてゆっくり説明する。ここは寒いじゃろ。いっしょに帰ろうではないか。クロエはもう一人ではない。これからは、私が一緒じゃ」
最初のコメントを投稿しよう!