負けられない戦いの火蓋は切って落とされた

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負けられない戦いの火蓋は切って落とされた

 薔薇が咲き誇る庭園で婚約者を待つ黒髪の青年の姿は、まるで一枚の絵画のようだった。  精悍な顔つきもさることながら、我が国が誇る魔獣討伐部隊の長を務める青年は肩書にたがわぬ体躯をしていた。  そこに子猫が警戒しながら近づくような足音が風に紛れて聞こえてくる。  青年は待ちわびたというように、戦場では決して見せることのない蕩けるような笑みを見せながら振り向き……おや?と不思議そうに形の良い眉毛を上げた。 「────ロアン・グレイデン様、ですね。初めまして。わたくしマリアお姉様の妹の、アンナと申します」  アンナと名乗る若き女性は、豪奢な金の髪をふわふわと揺らし、吸い込まれそうな若草色の瞳を好奇心旺盛な猫のように輝かせた。  ロアンの待ち人とは真反対の印象だった。  婚約者であるマリア・シュナウザー侯爵令嬢は、白金の髪に青い瞳をしていた。ロアンは心の中で、癒しの光を平等に照らす女神ともいえる静謐な月のように美しい、と評していた。  目の前に立つ婚約者の妹のアンナは、姉のマリアとは異なり勝るとも劣らない魅力を持った女性だった。  ロアンは心の中で、太陽のように影を祓う女神のような輝きがあり、目が覚める美しさの中にどこか危うさもあるなと評した。  そして同時に、そういえば【シュナウザー侯爵家には月と太陽に例えられる美しい姉妹がいる】という噂があったと思い出す。  どうやらその噂は真実だったようだ。 「アンナ嬢。ご挨拶をありがとうございます。マリアは……お姉さんはどちらに」 「ふふ。残念ですが、姉は少し遅れるそうです。ロアン様に少しでも美しく見られたいと整えていますので、もう少しお待ちになってと。伝言に参りました」  早く婚約者に会いたいと急いていた気持ちを見透かされ、からかわれたような気がしたロアンの顔が少し朱に染まった。  小さく笑う令嬢に少し言い訳がしたくなり、ロアンは逸らしていた視線をアンナへ戻そうとして──── 「あっ……」  アンナが想定より近くに立っていたことに、ロアンは驚いた。  魔物討伐隊の長であるのに、ただの貴族令嬢であるアンナが自身の間合いの内に立った気配を感じ無かったからだ。  よろめいたアンナの背中に腕を回し支えれば、華奢な身体がロアンの胸に飛び込んできた。  遅れて令嬢の小さな花のような香りに気付く。  薔薇が咲き誇る庭園でも、なおわかる。これは令嬢から香っているのだと。 「やっ……っ」  あまりの距離の近さに驚いたように、アンナはロアンの胸を小さく押し返した。その力は猫の子のように弱弱しく、意味をなしていない。  手は少し震えていて、男慣れしない仕草に思わず目を丸くする。 「あぁ、悪い」  ロアンは支えていた手をそっと離し、一歩下がった。  深窓の令嬢である婚約者にはひた隠している、素の荒っぽい口調が咄嗟に出てしまう。なんだか調子を崩されてばかりだった。 「いえ……っ、助けてくださったのですよね。ありがとうございます……失礼な態度を、ごめんなさい。あの、男の人とこんなに近づいたのが初めてで……少し、怖くて」  アンナは泣きそうなほど瞳を潤ませ、必死に弁明しようとしていた。  その様子はなんとも可愛らしく、最初の近寄りがたさすら感じる美貌を愛らしさに変えていた。 「あぁ、いや大丈夫だ。落ち着いてくれ。妹君に怪我をさせてしまったら、マリアに怒られてしまうからね」  落ち着かせようと令嬢の姉の名前を出せば、アンナは濡れた若草色の瞳でロアンの濃紺の瞳を見上げた。 「……でも、ロアン様は怖くなかった」  その小さな言葉を聞き直す前に、薔薇の庭園へ待ち人がやって来る。 「────ロアン、いつの間に来ていたの? アンナもここにいたのね」 「お姉様ったらやっと来たのね。その髪飾り、素敵だわ」  マリアは好奇心旺盛な子猫が飛びついてきたかのように妹を抱きしめ、ロアンに微笑む。  そして、ロアンの後ろ────少し離れたところに立つ、栗毛の青年にも会釈をした。 「お待ちかねのお姉様も到着しましたので、わたくしは下がります。ロアン様、お姉様をよろしくお願いしますね」 「ふふ。アンナったら、もうロアンと仲良くなったのね」 「ええ。ロアン様は優しいのですね」  ね?とアンナはロアンを見上げ、猫のように目をしならせた。
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