1、出会い、それから過去の夏

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1、出会い、それから過去の夏

 折に触れ、思い出してしまうひとがいる。  いつも心のどこかを占めている訳じゃない。  なのに、何かの折にその不在をふと感じる。  新しい本を開くとき、思い出してしまうひとがいる。  駅の改札を出たとき、ふと探してしまう姿がある。 「彼」も自分も歳を取って見た目も変わり、目の前を通り過ぎても互いに気づかないかもしれないのに。 (――そいつのことが、そんなに好きだった訳じゃないのに)  貴広は手の中のグラスをのぞきこんだ。  稟議書と通関手続きと、和露辞典をめくるばかりだった不器用な指。駐在との連絡のため、いつも時差を数えていた腕時計も、枕許に置きっ放し。  いつも無意識に取り上げていたガラスの食器が、その裏でこんな風に手入れされているものだなんて。  三ヶ月前まで、考えたこともなかった。 「マスターの手付きも、すっかり様になってきたわね」  常連の菅原さんが貴広を褒め、ふふっと笑った。カップを手に取るたび、キレイに塗られた爪が赤く光る。 「まだまだですが……ありがとうございます」  貴広はアイスクリームを出すとき使うクープグラスをそっと調理台に置いた。曇りガラスに星の意匠が抜かれた、昭和ならではの技巧が光る。先代マスターから引き継いだ、この古い「喫茶トラジャ」。内装も備品も、すべてその頃のものだ。 「いやあ、やはり血は争えないと申しますか、大したものでございますですよ、ええ」  ごいんきょも貴広をそう褒めた。貴広は穏やかに首を振った。  貴広の引き継いだ「喫茶トラジャ」は、午前十時開店の、午後七時閉店。ごいんきょはカップに残ったコーヒーを飲み干した。 「コーヒーの味も、安定してこられましたな」 「はい、おかげさまで。ずいぶんな豆を無駄にしてしまいましたが」 「そこよぉ。マスター、真面目で尊敬するわ。おいしく入らなかったら、躊躇なく捨てちゃうなんて、なかなかできることじゃないわよ」 「ははは。躊躇は、ものすごくあるんですがね。でも」  飲食店をやるなんて、そのくらいの覚悟がないとダメだ。 「マズいものを出しちゃったら、応援してくださってるみなさんのお顔に、泥を塗っちゃいますでしょ」  謙虚な貴広のもの言いに、菅原さんもごいんきょも満足そうにうなずいた。  カラ……ン。古風なドアベルの音を響かせ、常連さんたちは帰っていった。七時。  ドアにかけた「営業中」の札を外し、看板を店内に運び入れて、閉店だ。  貴広は店の空調を切り、少し考えて(二階)のベッドサイドから取ってきた腕時計を腕にはめた。火の元を確かめて店のドアに鍵をかけ、街路を北へ向かう。 (たまには遊びに出掛けてみるか)  JRで中心街へ向かうと、貴広の見つけた「店」がある。駅ビルのどこかで軽く腹ごしらえをして、ゆっくりそこへ向かうとしよう。  商店街を抜けて琴似駅へ。   小さな駐車場を曲がるともう駅はすぐそこだ。そのとき。  駅舎からまろび出てきた人影。 「うわっ」  貴広はギリギリのところで身体をかわした。人影は一瞬貴広を振り返り、謝るように頭を下げた。 「このヤロ……ッ。待て!」  駅舎からもうひとり走り出てきて、貴広の肩に思い切りぶつかった。 「何だよお前、ジャマすんなよ」  その男は貴広を睨みつけ、先に出ていった人影に叫んだ。 「おいこら! 何逃げてんだ」  貴広は男の襟首をつかんだ。 「おいおいあんた、こんな子供に何してんだ」  女性か、少女か、少年か。線の細いシルエット。いずれにしても、粗野な男に追われていいステイタスの人間には見えない。  人影は、びくりと肩をすくめて立ち止まった。  男は手足をバタつかせてさらに叫んだ。 「うるせ! 関係ねえだろ。離せ」  貴広は襟首をつかんだまま、立ちすくむ人影を振り返った。 「なあ、君、この男の嫁か何か?」  人影は低い声で「んなわけねえだろ」と呟いた。 「ふーん。じゃあ、家族でもない君を、あんな剣幕で追いかけてるんだ。そこのドラッグストアの向こうに交番があるんで、ちょっとそこで整理させてもらおっか。僕この街で商売してるんで、おまわりさんとも知り合いなんだよね」 「離せって!」  男はついに貴広の手を振り払った。襟を両手で直しながら、少年に向かっていまいましげに吐きすてた。 「くそっ。この性悪。憶えてろよ」  男はカンカンと靴音を響かせ、駅へ戻っていった。 「ええと」  面倒ごとに巻き込まれるのは勘弁だが。 「今のオジサン、何?」  貴広は親指で駅舎の方を指差した。 「あんたに関係ないだろ」 「あー、君までそんなことを言う。でも君、震えてるよ」  貴広の指摘に、少年は二の腕を握りしめた。震えを止めようとするように。 「とりあえず、あの男が待ち伏せしてないとも限らないから、今すぐJRに乗るのは止めなさい。それから、ひとりにもならない方がいい……」  ん?  少年は澄んだ瞳で貴広を見上げていた。  あちゃあ……。  せっかく日々の勤労を労って、遊びに出ようと思ったのに。  貴広はがっくりと肩を落とした。
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