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しかたなく、貴広は少年を連れて、たった今戸締まりをした店のドアを開けた。
「お入りよ」
少年は軽く頭を下げて、素直に貴広に従いてきた。
貴広はパスタを茹で始めた。
「君、いくつ? 名前は?」
少年は小さな声で「……ハタチ」と言い、唇を閉じた。
「あー、一応、成人済なのね。名前はまあ、言いたくなきゃ言わなくてもいいよ」
「良平」
少年、ではなく、成人であった。コートを脱ぐと、そんなに小さくもない身体が出てきた。
「伊藤……良平」
恐怖にすくんでいたために、あんなに小さく見えていたのだろうか。貴広は幾分気の毒になる。
「良平君ね」
貴広はパスタを鍋から上げた。湯を切って皿に空け、業務用のミートソースをかける。明日は追加を注文しなければ。
「僕は森井。森井貴広。この店のマスターをやってる。……といっても、まだたった三ヶ月の新米だけどね」
腕を伸ばしてカウンターに皿をふたつ置く貴広を、良平は無言で眺めていた。
「ああ。店は年季が入っているよね。継いだんだ。この店をやってた祖父が死んで」
貴広はカウンターを回って、良平とスツールふたつ空けて座った。
「お食べよ。腹減ってるんだろ」
良平は「いただきます」と頭を下げ、フォークを手に取った。
本当だったら今頃、それなりにうまい店で、温かいものを食ってるんだったのに。
関西風の澄んだ出汁でうどんを食べられるあの店。鴨だのウズラだのを出すフランス帰りのシェフのあの店。軽く腹に入れたら、酒は「店」で飲む。そこそこ礼儀を知った穏やかな奴が寄ってきたら、取り留めない会話を交わしてもいい。
だが。
「あのさあ」
貴広はフォークに巻き付けたパスタで、食べあきたミートソースをすくった。
「うるさいことは言いたくないけど、ああいう男のひととどこで会ったの」
「は?」
「いや……、家族じゃないんでしょ? だったらどこかで出会って、あそこにいたってことになる」
「はあ、まあ、……そうですね」
「まさかさあ、売春とかってんじゃないよね」
良平はカチリとフォークを皿に置いた。
「……だったら、どうなんです?」
そう言って不敵に笑ってみせる良平は、何というか……。
美しかった。
灯りを消した店内で、カウンターの中だけがオレンジにほの明るい。その柔らかな光が、良平の頬を片側だけ照らして。
うぶ毛が、睫毛が、うっとりするように震えている。
「待って。ちょっと待って」
貴広は両手で自分の視界を遮った。
「そうやって僕を誘惑しないで。僕はとりあえずそういうのいいから。間に合ってるから」
嘘だ。面倒ごとを避けたいだけだ。なんとなれば、今夜貴広は「店」へ遊びに出ようと思っていたくらいなのだ。
良平の唇からふっと息が漏れた。
「あんた、ゲイなの」
貴広の指の隙間で、良平の瞳がオレンジにまたたく。
「いいよ。金は要らないからさ。俺を泊めてよ。俺のこと好きにしていいから」
うわあ。何て口説き文句を口にするんだ、このコは。
「いやいや。結構です。俺のことは放っておいて。泊まりたければ、今夜は客席で寝ていいから」
良平の細い指が、顔の前で振る貴広の手をそっと取り、その指を唇に持っていく。
「離しなさいって」
貴広は勢いよく腕を引いた。
良平は空になった自分の手をほうっと見つめ、それから貴広をポカンと見上げた。
「ウォッホン。ばかなこと考えないで、まずご飯食べちゃいなさいよ」
貴広はスツールを引き、カウンターに覆いかぶさるようにパスタを頬ばった。
良平は少しの間そのまま固まっていたようだが、また黙ってフォークを取り上げた。時折カチャリとフォークが皿に当たる音がするほかは、冷蔵庫の低いファンの音だけが聞こえる。時折外の街路を、楽しげな笑い声が通り過ぎる。
夜はまだ早い。
「ごちそうさま」
良平はそう言って、コトリと音を立てて立ちあがった。
良平はふたり分の食器を洗った。貴広はカウンターに肘をついて、流しに屈みこむ良平に言った。
「あのさあ」
「何」
「ハタチって、ホントにハタチ?」
良平は洗い上がった食器をカゴに立てて、手の水気をザッとタオルで拭った。ポケットに手を突っこんで、無言で学生証をつかみ貴広の鼻先に突きつけた。
「あ……ホントに二〇歳だ」
貴広がホッとするのを見て、良平は無言で学生証をしまった。
「つきませんよ、嘘なんて」
「うーん、そうだろうけどさ。未成年をひと晩泊めたなんてことになったら」
「どっちにしろ、十八過ぎてれば問題なくありません?」
「問題って?」
「淫行条例、気にしてるんでしょ」
良平は意地悪く貴広を見た。
「あんたみたいな真面目な人間は、そういう規則にばっかり反応する」
「良平君」
貴広は立ちあがった。
カウンターの中は、ホールよりも一段低い。貴広は客席側から見下ろした。
「俺が悪い大人だったらどうするの? 自分の身を守れるの? 君が傷付かないように、君自身が守るんだ。君が自分で、大事にするんだよ」
貴広の剣幕に、良平はぐっと押し黙った。
貴広は二階の居住スペースからタオルケットを一枚下ろしてきて、良平に押しつけた。
「使って。客席のソファは年代物で、固くて寝にくいかもしれないけど」
僕は朝まで下りてこないから、安心して眠るといいよ。貴広がそう言ったとき、良平はふっと睫毛を伏せた。
さびしそう……なのか。
「ホントに何もしないのか?」
「して欲しいの?」
良平は唇の形を皮肉に曲げた。
「あんたが俺の機会を奪ったんだからな。責任取れって」
「責任ねえ……」
あんな暴力男でもよかったと?
貴広は少し考えた。
「今日はしない」
「え?」
良平はいくどかまばたきした。灯りの柔らかいオレンジ色が瞳で光る。
貴広は内心ドキドキしながら、平気な顔を保とうとした。
「もし俺とそういうことを君がしたいなら、また次会ったときにそう言って。一宿一飯の恩義とか、そういうの関係なく判断してくれたらいい」
(ああ、俺、メンドクサい男だなあ)
自分のことながらガックリして、貴広は良平の脇を通り過ぎた。
「じゃね。お休み」
「はい……お休み、なさい……」
それきり振り向かず、貴広は狭い階段を登った。
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