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* * *
(そいつのことが、そんなに好きだった訳じゃないのに……)
折に触れて思い出す「あいつ」。
彼とは、高等部に上がって初めて同じクラスになった。
誰かといるよりひとり本を読んでいることの多い貴広とは違って。
いつも大勢の仲間に囲まれ、明るく笑っていた彼。
貴広の苦手な数学がよくできて、かと言って文系科目も得意で、歴史なんて物語にしてよく教室の隅で語っていた。彼の講釈を聴けばそれだけで試験の点数が十点二十点上がるような気がしたものだ。
部活でも活躍していた。確か、生物部だったか。放課後の廊下に、生徒たちと顧問の教師の笑い声が聞こえていた。
『夏休みの研究課題、一緒にやろう?』
そんな彼が、いつも周りを囲んでいる友人たちではなく、貴広に手を差し伸べた。
彼は研究パートナーとしても優秀だった。
(ただ、俺の持っていないもの、どれもこれもみんな持っているなあって)
学校から近い彼の家に招待された。夏休みの彼の家には、研究職らしい優しげな父と、専業主婦のおっとりした母がいて、いつもしーんと静かなひとりきりの自分の家とはずいぶん違うとビックリした。
貴広の両親はすでに離婚して、父はいつも海外、母も仕事で帰宅は遅い。
(……羨ましかった、の、かな)
「羨ましい」とひと言でくくってしまえない、いくつかの気持ち。
そんな気持ちを抱えたまま、高等部の三年間を、彼と過ごした。彼の空き時間を分け与えてもらった。
そして――――。
* * *
階下で何か不審な物音がしないか、時折耳を澄まして横になっていると、いつもは思い出さない昔のことを思い出す。
貴広は何度目かの寝返りを打った。
階下からは何の物音もしなかった。
「ふわーああ」
貴広は壁にぶつからないよう気にしながら、腕をぐーっと伸ばして階段を降りた。
「良平君?」
ぐっすり眠れたとは言えないが、七時まではベッドでガマンした。そろそろいいかと思って起き出したのだが。
「良平君……」
店内は無人だった。
壁際のボックス席に、夕べ手渡したタオルケットが丁寧に畳まれてあった。
手を触れると、ほんのり温かいような気がした。
いつ出て行ったのだろう。
明かり取りの窓から朝日が差して、店内は早くも温度が上がり始めている。
「出てってもいいけどさあ。カギ締めなきゃ、不用心でしょお」
貴広はブツクサ言って、店のドアを押し開けた。ほこりっぽい街路だが、まだ朝早いこの時間は爽やかだ。
左右を見回して、貴広は首を引っ込める。
(見えるわきゃないわな。今今出てった訳じゃなかろうし)
まあ、いい。
宿代を請求する気も、面倒ごとに巻き込まれる気も。
貴広にはないのだ。
さあ、今日は、何を食べようか。
貴広はコーヒーポットを火にかけた。
二〇歳。
――あの頃の俺と、同じ年頃か。
あの頃の俺たちと。
* * *
夏になると思い出す。
卒業まで、友人の多い彼と一緒にいるには、何か特別の用事が必要だった。夏休みの研究課題は不思議と毎年誘われた。学祭のハリボテを作る資材の買い出し。クリスマス会のバザー担当。卒業アルバムの制作委員にも、彼から声をかけられた。
あんなに友人もたくさんいて、部活でも楽しそうで。
なのに、どうして節目節目で、彼は貴広を誘ったのだろうか。
修学旅行の思い出ページには、ふたりが同じフレームに入った写真は一枚もなかったのに。
普通の友人として挨拶をし、普通の友人として卒業して――。
一度だけ。
卒業してから何度目かの夏、一度だけ、彼が貴広の家へ泊まりに来たことがあった。
クラス会に出席するため帰ってきた彼は、貴広に「ひと晩泊めてよ」と笑いかけた。
両親は引っ越して、この街に家はないからと。
「いいよ」とひと言、貴広は答えた。
そのとき、貴広は、どんな顔をしていただろう。
少しばかり酒を飲んでいた。貴広は自室に彼を寝かせた。
客布団でスースー寝息を立てる彼を、あのとき貴広は、どんな思いで眺めていたのだったか。
エアコンの作動音に紛れ、自分の息づかいが聴かれなければいいと、そう思ったことを憶えている。
眠れないまま夜が明けて、彼は「ありがとう」と帰っていった。
それきり、二度と会うことはない。
連絡を取ることも、もう二度と。
* * *
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