2、ハニー・ビー・カフェ

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2、ハニー・ビー・カフェ

 カラ……ン。  扉の鐘が軽やかに鳴る。 「いらっしゃいませ」  貴広は戸口へ笑顔を向けた。  開店直後の客が退け、店内は常連だけになっていた。カウンターに文庫本を持ちこんだごいんきょ、カウンター前のボックス席では菅原さんがスケッチブックとにらめっこだ。時間の縛りのない彼らは、いつも「喫茶トラジャ」の空気を暖めてくれる。無人の店には誰もが入りにくいものだ。  貴広は一瞬眉をひそめた。 「どうぞ、お好きなお席へ」  相手に気取られないよう朗らかさを装って、貴広は客を奥へ招いた。  この暑いのにビジネススーツのふたり連れが、書類カバンを提げてやってきた。 「お忙しいところ恐縮です」 「ご店主さまですね?」  ふたりは内ポケットから名刺入れを取り出した。貴広は反射的に手を拭い、レジ横の引きだしに手を伸ばした。 「わたくしどもは、こういうものでして」 「『ハニー・ビー・カフェ』……さん……」  その屋号なら知っている。首都圏で多店舗展開しているカフェチェーンだ。取引先の近くにあったので、帰り道何度かコーヒーをテイクアウトした。チェーン店にしてはややお高めだが、味がよかったのでビジネス界隈では人気だった。  引きだしから自分も名刺入れを取り出して、ふたりと交換したあと、貴広はふたりを菅原さんの隣のボックス席に案内した。  こんなプロの連中に、マスター業三ヶ月の自分がコーヒーをふるまうのは嫌なものだ。  だが、仕方がない。  貴広は、ふたりの注文したブレンドコーヒーを自分の分も淹れ、トレイに載せてボックス席に向かった。 「それで今日は、どのようなご用件で」  貴広はそう水を向けた。背後でごいんきょと菅原さんが耳を澄ます気配を感じながら。 「実はですね……」  貴広は、一応はおとなしくふたりの提案を聞いた。 「ええっ。ここを買い取りたいですって」 「はい、もちろん、充分なお礼はいたしますし、決してご損をさせるようなお話ではないんです、ええ」 「ハニー・ビー・カフェ」の話はこうだった。  彼らの「ハニー・ビー・カフェ」を、今度は札幌市内でも展開したい。ついては、第一号店をこの琴似駅近で出店できそうな余地を必死で探している。 「お隣の『みにーコスメショップ』さまにもお声おかけいたします。お二軒さまとも、このご時世、お車でお越しになるお客さまが多いかと存じますので。駐車場つきの立派なお店を、自家用車で出入りしやすい立地に新たに構えていただけます」  なんと。この店を売れと。  隣の化粧品店と併せれば、確かにチェーン店のオペレーションのできる店舗と、駐車スペースも四、五台分取れる。  ……だったら貴広が隣を買い取って、「トラジャ」を広げてもよくないか。  カウンターからごいんきょが、黙って聞いているのに耐えられなくなったのか振り返った。 「あのぉ、差し出がましくて恐縮なんでございますが」 「はい?」  ビジネスマンは笑顔を向けた。  貴広も顔を上げた。 「そのお話、お宅さま方が直営でやらなければならないんでございますか? たとえばこちらのマスターが、フランチャイズでお引き受けするような可能性は……いかがなものでございましょ」  さすがごいんきょ。貴広と同じことを考えていた。 「ああ、それはとても有難いお言葉なんですが……」 「ハニー・ビー・カフェ」が言うには、この地で売れるメニューや価格を調査したいという目的もあるので、フランチャイズではなく直営店舗でいろいろ実験したいとのことだ。 「フランチャイズ店舗さまに、そんなご負担おかけする訳にはまいりませんから」 「はあ……」  心なしか、ごいんきょは肩を落としたように見えた。隣のボックス席で、菅原さんのシルエットも揺れる。  なるほど。「ハニー・ビー・カフェ」の看板で稼がせてはもらえないってことか。 「ちょっと、マスター。どうするの?」  ビジネスマンたちが出ていって、菅原さんが興奮気味にそう訊いた。 「『どうする』って……そりゃ……」 「売るの? 売らないの?」  菅原さんだけでなく、ごいんきょもカウンターから身を乗り出している。 「そんなこと急に言われましても、ねえ」  貴広は淡々と、ふたりが立った席を片付ける。  そろそろランチタイムだ。  
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