2、ハニー・ビー・カフェ

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 店を出てタクシーを拾う。  良平の気が変わるまえに、車に押しこめて、十分ちょっとの道を急ぐ。  帰り道、ふたりはひと言も口を利かなかった。  良平はそっぽを向いたまま、車の外を眺めていた。  良平が通っているはずの大学の脇を通り過ぎる。銀色の街灯が良平の輪郭を青く照らした。 「あんた、ここへ俺を連れてきて、どうする積もり?」  良平は入り口のドアに凭れてそう訊いた。 (どうする積もり……)  貴広はドリンクストッカーを開けた。早々に「店」を後にしてきた。今日はもう少し飲む気分だったのに。 (……どうするんだろう)  貴広はカウンターにグラスをふたつ並べ、ビールを注ぐ。  良平の分を少し離したところに置き、貴広は自分の分のグラスをグッと傾けた。  貴広の返事を諦めたのか、良平は次の言葉を口にした。 「あんた、恋人とかいないの?」  貴広は口の端にビールの泡をつけたまま「いない」と答えた。  良平はビールのグラスを持ちあげ、チビリと口をつけた。 「ああ、だからあの店に、相手を探しに行ってたのか」 「別にそういう訳じゃない」  貴広は次の缶を開け、自分のグラスにゴボゴボと注いだ。 「なあ……」  良平はグラスを握った貴広の手に、その細い指を絡ませた。 「ひと肌の恋しい夜だってあるだろ?」  貴広はグラスをカウンターに置いた。 「大丈夫。ノーサンキューです。てか、手放して」 「えー、何でさ。自信失うなあ。そんなに俺って魅力ない?」  良平はぼやいた。 「あんた、言ったじゃん。『次に会ったときに君がその気だったら』って」  貴広は言葉に詰まった。  言った。確かにそう言った。  言ったけど――。  多分。  貴広はこのコに触れてはいけない。そんな気がしている。  貴広はビールのグラスの縁を爪で弾いた。カンと小さな音がした。 「ねぐらが欲しいだけだろ? 宿代代わりに寝るんなら、それもう違法行為じゃん」  良平はビールをまたひと口飲んだ。 「まぁた法律かよ。ホンットあんたって真面目だな」  良平は「つまんねえの」と歌うように続け、腰かけたスツールごとくるりと回った。良平の背中に貴広は言った。  「ああ、真面目で悪かったな。君見てると痛々しいんだよ、家出少年」  良平の背中が強ばった。  言い過ぎたか。  貴広は後悔した。  プライドを傷つけられて、今度こそ良平は出ていくかもしれない。もっとおいしいエサをくれるひとの家を、フラフラと探しに出るかもしれない。  野良猫、いや、餌付けされた半ノラのように。  良平は戸口の方を向いたまま、指でカウンターをトントンと叩いた。オレンジの光が今夜も良平の頬を照らす。通った鼻筋。つまみ上げたような、潤んだ唇。  良平は立ち去らなかった。少しして、ようやく口を開いた。 「――分かったから、ベッドに入れてよ、何もしないから。椅子は固くて、身体が痛いんだよ」    子猫のような規則正しい寝息。  貴広は聞くともなしに良平の寝息を聞いていた。 (どんな子供なんだろう)  良平がいくら大人だと主張しても、当節二十歳になりたての若者はやっぱり子供だ。まして身体付きも細くて軽そう彼なら尚のこと。  貴広は指を伸ばしてカーテンをめくった。向かいのマンションの隙間に朝が見えた。  学生証は確認した。学生なら住むところはあるだろう。入学のときに住民票など提出する。  何か、自分の家にいたくない理由があるのか。  行きずりの男の寝床を渡り歩くほど?  野良猫のように?  良平は、貴広が貸してやったパジャマにくるまって、安らかな寝顔だ。  貴広は良平を起こさぬよう、そうっとベッドを抜け出した。  三月いっぱいで商社を辞め、札幌に引っ越してきたときに、貴広はセミダブルのベッドを買った。店舗兼住宅の二階部分は、階段を上がると水回りとリビング、反対へ折れると寝室で、決して広くはない。独身で荷物らしい荷物もない貴広は、せっかくだからとベッドだけは広めのものを新調したのだ。  セミダブルのベッドに良平を入れ、自分もそこで一緒に寝た。もちろん何もしなかったが。 (手を出さずに朝を迎えることで、終わる関係もある)  心臓の辺りが重く痛む。  ポタリポタリとサーバーに琥珀色の液体を落とす。朝のこの時間は、貴広の練習の時間であり、実験の場であった。湯の落とし方から豆の挽き方、産地の違いを比べたり、名だたる焙煎士の手になる豆を試したり。  背後でかさりと音がした。貴広は振り返らないまま声をかけた。 「起きたか」  良平ははだしで小さなキッチンまでやってきた。 「おはよぉ」  コーヒーを落とし終わり、貴広はドリッパーを脇へよけた。 「んー、いい匂い」  良平は鼻先を寄せた。その仕草は。  いたいけな子猫のようで。  心の中で揺れ動かされる感情を、貴広は苛立ちで隠した。良平にも、自分にも。 「ほら」  いささか乱暴にコーヒーを入れたマグカップを、その鼻先に突きつける。 「ありがと」  良平は素直にカップを受け取った。  パジャマにはだしでコーヒーを楽しむ良平。貴広のパジャマは良平には大きくて、裾をくるくる折り曲げているのも可愛らしい。 (可愛い⁉)  可愛いことあるか。  これは図々しいって言うんだ。 「いただきまーす」  コーヒーにトースト、ゆで卵。そんな簡素な朝食をうまそうに良平は食べた。  二十歳の食欲を無言で眺めていた貴広を、からかうように良平は笑った。 「熱い夜を共にした恋人同士みたいだね」 「そういうの、もういいから」  貴広は憮然と横を向き肘をついた。  何がおかしいのか、良平はなおもクスクスと笑っていた。 
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