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(森井ん家ってさ、相変わらず母さんいないの?)
(ああ。今日も出張)
(じゃあさ……ひと晩、泊めてよ)
屈託なくそう言って笑った彼は、少しだけ赤い顔をしていた。
まだ酒も飲みなれない昔々。
いいよと答えた貴広も、慣れないアルコールで頬が熱かったのを憶えている。
二次会を断って乗った電車で。招きいれた貴広の部屋で。ぽつりぽつりと何を話していたのだったか。
沈黙が怖くて、うっかり喋っちゃいけないことを口にしてしまいそうで、咽がカラカラに渇いたのを夏の暑さのせいにして――。
取り留めない話をそのまま続け、限界に眠くなるまで待って灯りを消した。
エアコンがグーと低い音を立てていた。
あの夜。
ほんのちょっと貴広が前へ踏み出せば、彼は拒まなかっただろう。
どちらも口にはできないが、淡い想いがあった気がする。自分にも、そして彼にも。
だがもしそれが、貴広の一方的な思い込みだったら。そう思うと怖ろしくて踏み出すことはできなかった。
そして、貴広には分かっていた。
彼への想いは、その程度にこらえきれる程度のものだった。
激情に撞き動かされ、世界を破壊する危うさなどない。
翌朝、(泊めてくれてありがとう)と彼は言った。
玄関で見送った彼は、確か笑っていた筈だ。
薄淡い、はかなげな笑顔で。
何もせずに朝を迎えることで、終わってしまった関係。
以来、彼と顔を合わせたことはない。
連絡先も知らない。
思い出すたびに、貴広は絶望的な気分になる。
彼を愛せなかった自分の意気地のなさに。
誰をも愛せない、自分の情の薄さに。
自分だって、誰かと愛し愛される関係になりたい。そんな近しい存在を持ちたい。
だが、裏切られるリスクを冒せるほど、ひとを好きになったことは、貴広にはなかった。
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