5・本当に、来た

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「ごめんごめん。マナーにするの忘れてた」 そう言いながら、藤嘉はちらりと画面を見る。 その奥二重の真っ黒な瞳が、ピクリと細まったのは一瞬だった。 藤嘉はすぐに画面から視線を反らし、側面のボタンを押して電子音を切る。 立ち上がると、静かになったスマホをまた尻ポケットに入れた。 「じゃあ、今日は帰るわ」 藤嘉はおもむろにガタガタと椅子を元の場所へ戻す。 鞄に手を伸ばして紐を、そのかっちりとした肩へと掛ける。 そんな藤嘉を見ながら俺は言った。 「え?帰んの?」 藤嘉はこちらを見る。 「椋」 「ん?」 問い掛けた返事の変わりに藤嘉は俺の名前を呼ぶと、一歩こちらへ近付く。 貸し出しカウンターに右手を置いて、俺の参考書を覗き込む様にして背中を屈めた。 近付いたことで、果実の様な香りが強くなる。 俺は思わず身を引いて、椅子の背もたれに背中をぴったりとくっ付けた。 藤嘉は左手を伸ばすと、俺のノートを指差す。 「そこ、間違ってる」 「え?」 藤嘉の指先が差していたのは、今さっき問いた数学の問題だった。 「え、嘘!?」 「本当」 「えー…」 自分が解いた数式を始めから見ていく俺の視界から、藤嘉の指先が消えた。 指先を追って、視線を上げる。 屈めていた背中を真っ直ぐに伸ばして立つと、藤嘉は静かに言った。 「f '(-2)=2・(-2)+1=-3」 それが今指摘された問題の答えだとはすぐには分からなかった。 きっと間抜けな顔をしいたのだろう、藤嘉は俺の顔を見て笑う。 頬にえくぼが浮かぶ。 「じゃあまたな、椋」 藤嘉は左手をひらひらと小さく振ってそう言うと、背筋がすっと伸びた背を向ける。 肩からずり落ちた鞄の紐を反対の手でまた肩へと掛け直しながら、図書室から出て行った。
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