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言えない。誘えない。
藤嘉にはもう花火大会に一緒に行く相手がいる。
音弥という、相手。音弥という、彼氏。
俺は藤嘉の瞳から視線を反らす。
またノートの下手くそな字へと目を落とした。
そして答える。
「そんな相手いないよ」
「えー?マジ?」
「マジ」
「えー?」
藤嘉は不服そうに声を上げる。
初めて聞いた不服そうな声に、俺は取り繕う様に付け足す。
「藤嘉とは指切りしちゃったから。何かあればちゃんと言うって」
「怪しいんだよなぁ」
藤嘉はまだ不服そうな声だ。
俺は人差し指でノートの文字をなぞりながら、精一杯冗談めかした返事をする。
「何が怪しいんだよ?」
「椋って秘密主義っぽいし」
「はあ?藤嘉ほどじゃないだろ?」
「え?俺?」
意外そうな声を上げた藤嘉に俺は続ける。
「転校してきて4ヶ月も経つのに、未だにお前の色んな噂聞くぞ。しかも全部ガセ」
「どんなガセネタ?」
「勉強しないのに頭良いのはIQ180あるからとか、優しいけど実はドSとか、めっちゃ美人の彼女いるとか」
俺は最近耳にした藤嘉の噂を並べて挙げた。
藤嘉は軽やかに笑う。
「ははっ。それ周りが好き勝手に言ってるだけじゃん」
「だろうけど。噂が絶えない分、藤嘉の方が秘密主義って感じがする。本当の姿を見せない的な」
「ははっ」
短く軽やかに笑ってから、藤嘉の言葉は続いた。
「本当の俺のことは、椋だけが知っててくれてるから。それで充分だもん」
ノートをなぞる指が無意識に止まった。
「…そっか」
そう答えるのが精一杯だった。
だって、俺よりも藤嘉を知っている奴がいることを、俺はもう知っているから。
なのに、藤嘉の言葉を嬉しく感じる俺がいる。
俺だけ特別なのだと錯覚しそうになる。
俺は静かに、ノートの上の指先を握り締めた。
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