暗月

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暗月

 …………。  気のせいだ、と思いたかった。  はじめは遠く、微かな空気の揺れ。  幻聴かと惑うたのは(わず)か。  だが耳は、長い間途絶えていた(おとな)いを告げるその音を、離れたところからであっても確かに拾っていた。  押し潰されんばかりの闇と静寂の中にあっては鋭敏になるのは当然のことではあるが、幻聴や思い過ごしだとするには、孤独な塔の中でそれは余りにも大きすぎる音だった。  さほど間を置かずして石階段を上がってくる足音が、思い違いではないとばかりに、塔の中に響き渡る。  足音は、二組。  近づく毎に、その違いが良く分かった。  他者を支配する者と、それに付き従う者。  やがて鍵を開ける金属音が鳴り響き、どろりとした暗闇の中を仄かな銀色の光りが少しずつ切り裂いてゆくのを、固く冷たい石の床に頭をつけたまま薄く眼を開けて見ていた。  重い扉が完全に開け放たれた音と共に、射し込んだ光のあまりの眩しさに、目蓋をきつく閉じる。 「この先は、ひとりで良い」  忘れたくとも忘れられない声の(おぞ)ましさに、知らず(おこり)のように身体が震え顔が(ゆが)んだ。  (おもむろ)に伸びて来た手によって金属の首輪に付けられた鎖を吊り上げ、無理矢理に身体ごと引き起こされる。咽喉が潰れ、出したくもない呻き声を上げていた。  鼻先が触れ合うほど、顔を近くに寄せた気配がする。  相手の顔を確かめたくとも閉じていた眼を僅かにしか開けられないのは、暗闇に慣れてしまったせいだ。光が両眼に痛いほど滲みる。  だが、影になり、はっきりと見えずとも声を聞いたときから既に分かっていた。その面変わりの激しさに、長い年月が過ぎたことを改めて実感する。 「……憐れだな。死ぬことも老いることも赦されぬとは、誠に厄介な呪いだ」  その男は、咽喉の奥で低く笑う。  くつくつと、愉しげではあるが、どこか痛みを堪えているような聴き慣れた笑い方で。 「な、にを……憐れなのは、どっちだ……随分と老いさらばえた姿で、何をしに来た? 最後におまえが私を陵辱してから、どのくらい経つ? それに……どうやら有り難いことに今は、そのような気力も無さそうだな」  力を振り絞り掠れた声で言い放つも、身体に刻まれた恐怖は歳月を経ても忘失を許さず、震えは止まることを知らない。  石の床の上で耳障りな音を立てる鎖を、男が、ぐっと力任せに高く引き上げた。  鉄製の首輪が皮膚に深く食い込み、がはっと咽喉から息が漏れる。 「そなたは少しも変わらぬ……いや、違うな。あれほどまでに美しかった姿は、痩せ衰え汚物に(まみ)れ悪臭を放ち見る影もない。叶うならば、是非ともこの手で殺して差し上げたいのだが」  ――。  ねっとりと、耳元で囁く。   「そなたは私が死んだ後も、塔から出されることはない。そなたを手に入れることなど誰にも許さん。この先も、呪いは決して解けぬ。何故なら、そなたが誰とも出会わなければ、失うことも失わせることもないからだ。分かるか? この命果てたとて永劫に渡って、そなたは私だけのものだ」  狂気じみた笑い声が牢の中に響いた。  男の、鎖を掴んでいない方の手が頬に伸ばされる。  繰り返し陵辱された頃とは違う、萎んでかさついた老人の手だった。 「そなたのことは、離れてさえ一日とて忘れたことはない。狂わしいほどに愛しく、同時に日夜、憎み続けて来た……だが、これで(わか)れだ」  ゆっくりと萎びた指で頬を撫でられる感触に戦慄が走る。睨みつけると、ククッと咽喉の奥で笑う声が聞こえた。 「……嗚呼、その眼だ。そなたは組み敷かれている最中も、どのような時であっても、いつもその眼で私を見ていたな」  男の指が、(まなじり)に掛かる。 「酷く美しいな。癪に触るが、実に昂らされたものだ」  愛しげに柔く肌に触れていた指に、不意に力が加えられた次の瞬間。   眼球を(えぐ)り出そうとする男の指先が、無理矢理に顔の中へと沈み込む痛みで悲鳴が漏れた。  どれほど叫び声を上げても頭の中に、ぐちぐちと、眼窩を掻き回される音が聞こえる。  程なくして、膜が剥がれ眼球が眼窩から飛び出した痛みで気が遠くなる中、ぶつぶつと神経とを引き剥がす音と共に生温い血が噴き出す。男の濡れた舌が、抉られた後の穴から溢れる血を執拗に舐めとっているのを感じた。  忘れたくとも忘れられない日々が蘇り、吐き気が込み上げる。蠕動(ぜんどう)する空っぽの胃から、吐き出せるものは何もなかった。 「愛しいそなたの一部を連れてゆこう。死ねぬことを怨むなら……アデライード。私のことを愛せなかったそなた自身を恨め」  唐突に、男が掴んでいた鎖から手を離したことで、地面に勢いよく顔が叩きつけられる。  眼球を失った痛みに薄れゆく意識の中、重い扉が閉まる音が遠く聞こえ、辺りは再びの闇に包まれたのだった――。
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