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「ルシアに子供ができたんだ。だから婚約破棄させてもらう」
そう婚約者であるゴードンに言われた時、ローズは頭が真っ白になった。彼の隣にはローズの後任である聖女ルシアがゴードンに寄り添うように立っている。
ここは神殿にある聖女の間だ。ローズは当代聖女として八歳から十六年間──つまり、二十四歳になる誕生日の今日まで、この部屋で暮らしてきた。
ローズは今日聖女としての役目を終えて神殿を去り、ゴードン・コルケット伯爵の妻になるために嫁入りすることが決まっていたのだ。
あまりのショックでよろめいたローズの肩を専属護衛騎士のディランが支えた。
「ローズ様、大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫よ。ディラン、ありがとう。少しびっくりしてしまって……」
ディランは黒髪と青い目が美しいローズと同い年の青年だ。公爵領で共に過ごした幼馴染で、ローズのことを案じて神殿入りする時に付いてきてくれた忠義の騎士でもある。
彼の心配そうな表情を見て、ローズは『落ち着かなければ……』と自分に言い聞かせた。
(そうよ……私は最後まで聖女として、しっかりとした振る舞いをしなければ……)
そう思い、ローズは凛とした顔でゴードンに向き直る。
「ゴードン様……ルシアとの間に子供ができたというのは、本当ですか?」
「ル・シ・ア様でしょう? 呼び捨てにしないでちょうだい。あなたは、もう聖女じゃないのよ」
そう言って、ルシアはピンク色の波打つ髪を背中に払いながら胸を張った。
午前中にローズはルシアに聖女の位を引き継ぐ儀式をしたばかりだ。なので確かに今はローズには元聖女という肩書きしかなく、確かに立場はルシアの方が上だ。
(まさか、信じていた後輩と婚約者にこんな裏切りを受けるなんて……)
ローズは歯噛みした。
ルシアはここ二か月ほど体調が悪く寝込むことが増えていた。次期聖女としての忙しさとプレッシャーからかと気遣って休ませるようにしていたが、まさかつわりだったとは思いもよらない。しかも相手は自分の婚約者だ。
「本当だ。医者に見せたら、もう三か月になると言われた」
そう言ってゴードンは愛おしそうにルシアの肩を抱く。
「そうですか……けれど妊娠なんて……聖女の業務に支障がでるのでは……」
ローズは心配して言った。
この国の聖女は処女性が必要なわけではない。一番重要視されるのは聖力の強さだ。それがだいたい二十歳ほどをピークにして徐々に衰える傾向にあるため、聖女の任期は長くても二十四歳くらいまでと定められている。
(過去には経産婦の女性が聖女に選ばれたこともあるから、妊娠自体は聖女の資格を失うものじゃないけれど……神殿の皆さんは良い顔をしないでしょうね)
聖女の任期期間中は恋愛しないようにと厳しく言い渡されるのだ。
ローズのゴードンとの婚約は聖女になる前のことだから、お目こぼしされただけのこと。
それにローズは婚約者といってもゴードンと親しいやり取りはしてこなかった。ゴードンがローズを嫌っていたからだ。
(でも、ルシアとゴードン様は元から婚約関係にあったわけではないわ……)
今ルシアが身ごもっているということは、聖女候補の時から彼と関係を持っていたということになる。あまつさえ他人の──聖女だったローズの婚約者を寝取ったのだ。それを知ったら神殿の皆は顔をしかめるに違いない。
今はこの場には四人しかいないが、ローズを慕ってくれている神殿女官達がこのことを知ったら激怒するはずだ。
「はっ……嫉妬? だからその年になるまで結婚もできなかったのよ。良い子ちゃんでルールを守っていたら聖女だって何もできないわ。あなたって本当に馬鹿ね。そんなんだからゴードン様みたいな好条件の男を逃すのよ。誰だって行き遅れの女より、若い女の方が良いに決まっているじゃない」
ルシアの言葉に、ガツンと頭を殴られたような気がした。
言い返そうとして口を開きかけて──閉じた。悔しいが、頭のどこかでルシアの言うことに納得してしまう部分もあったのだ。
ゴードンとは愛はなかったにせよ、良い関係を築いていこうと努力はしていたのだが、それは彼には伝わっていなかったらしい。
「お前の容姿は寒々しくて好きではなかったが、ルシアは春の実りのように魅力的だ。それにお前より若く、聖女としての力もある」
そう言ってゴードンは幸せそうにルシアの肩を抱いた。
ローズはほっそりした肢体に、腰まである銀髪と青い目という冷たい印象の風貌をしている。対するルシアは豊かなピンク色の髪で、何より両胸が聖衣の下から大きく主張している。確かに印象も正反対だ。
(若い時は、それだけでちやほやしてもらえるわ。けれど、それだけでは年を取った時に日々衰えていく自分の容色と周囲の反応に虚しくなってしまうから……老いた時にも自分を誇れるように聖女としての職務も頑張ってきたつもりだったけれど……)
ローズは今日で二十四歳だ。婚期をすぎていたが、最後まで聖女としての任期をまっとうしたことは己の自負になっていた。
ゆえに己の年齢を恥じてはいない。だが十六年も婚約者として尽くしてきたゴードンにとっては、ローズの努力は無価値だったのだろう。それに落胆した。
「さっきから黙って聞いていれば、ローズ様に何という失礼な物言いをするのか……っ!」
ディランが剣を抜いてローズの前に出る。
いつもは無口で冷静な彼が、自分のためにそう声を荒げてくれていることが嬉しかった。そばに味方がいてくれるのが心強い。自分のそばにはディランや他の神殿女官達といった味方がいるのだ。そう思うと、こんな状況であっても力が湧いてくる。
「ディラン、待って」
「しかし……」
「私は大丈夫」
聖女の微笑みを浮かべた。
ローズは八歳の時に最年少の聖女として認定された、在任期間が十六年の史上最長の聖女だ。十六年という歴代最長の期間聖女の任についていたローズは、どんな時でも表情を崩さずにいる癖が染みついている。
「お父様のためにも、あまり波風を立てたくないわ……」
ボソリと、ディランにだけ伝わるように小声で言う。それに反応して、彼は悔しげに顔をゆがめて剣を収めた。
本来なら伯爵家から格上の公爵家相手に婚約破棄などできないが、両家には複雑な事情があって伯爵家の傲慢な態度も成り立ってしまうのだ。
「なんだ、その無礼な護衛騎士は。ローズ、ちゃんと教育しておけ!」
そう荒々しく舌打ちを打つゴードンに、ローズは拳を握りしめる。ディランも苛立っているのか表情が強張っていた。
「そうよ~! ディランはこれから私に仕えるのだから立場を分かっていないとダメじゃない。まあ良いわ。これから私がしっかり教育してあげるから」
ルシアがディランを舐めまわすように見つめてから、そう艶やかに笑った。
ディランが見目麗しい騎士だから、そばに置いておきたいのだろう。神殿で一番美しい彼にルシアが熱い視線を送っていたことにはローズも気付いていたが、聖女になった途端、こんなに露骨な態度をしてくるとは思わなかった。
(聖女候補として私に従ってくれていた時は、いつも殊勝な態度をしていたのに……あれは演技だったの?)
「俺がローズ以外の者に仕える? 冗談はよしてくれ。俺は確かにローズの専属護衛騎士だが、神殿と契約した騎士ではない。ローズが主君でないなら他の誰にも仕えるものか。どちらにせよ敬愛する主君に暴言を吐く女など、大金を積まれても嫌だね」
そのハッキリとしたディランの拒絶に、ローズも驚いた。
ルシアは悔しげに唇を嚙んでいる。
「はぁ? この聖女の私が直々に任命してあげるって言っているのに、それを不意にするわけ? あったまおかしいんじゃないの!? ……ハァ、見目麗しいから聖女のそばにいる栄誉を授けてあげようと思ったのに。主が主なら部下もお花畑ね」
「……私は何を言われても構わないわ。でも、ディランを馬鹿にするのは止めてちょうだい」
ついに我慢ができなくなって、ローズはそう言った。
「なんですって!?」
ルシアが顔を真っ赤にして怒っている。
(落ち着くのよ……ここで争いを起こしちゃダメ)
ローズは気持ちを落ち着けるために深呼吸してから、ニヤニヤ笑っているゴードンに静かに尋ねた。
「……婚約破棄は構いません。しかし、それはコルケット前伯爵夫妻も了承なさっていることですか?」
ローズとゴードンの婚約は親同士が決めたものだ。
しかし、ゴードンは馬鹿にするように笑う。
「両親にはまだ伝えていないが、快く了承してくれるに決まっているさ。さては、お前が俺の病を治療していたから婚約破棄できないとでも思っているのか? 両親がうるさいから、この年になるまで形式的に治療は続けていたが、俺はもう健康そのものだ。もう何度もそう言っているだろう。もうお前の手を借りる必要はないと。万が一、病気が再発したとしても、ルシアがいれば問題ない。少なくとも歴代最弱の聖女と馬鹿にされているお前より、ずっとルシアの方が能力は上に決まっているんだからな」
ローズはゴードンと婚約した八歳の頃から十六年間ずっと、彼の病を治療し続けた。
ゴードンは今でこそ元気に暮らしているが、幼少の頃は寝たきりで、いつまで生きられるか分からない体だった。
ローズは聖女としての力が発現した八歳の頃、父親からゴードンを紹介された。
ベッドの上に横たわる十歳だった少年はやつれており、とても苦しそうで、どうにかして助けてあげたいと幼心に思った。父親が『僕が昔、川で溺れてしまった時に、彼のお父様に命を救われたんだよ』と言ったのも、ローズのその気持ちに拍車をかけた。
──お父様を助けてくださった御方の息子さんだもの。恩返しをしなきゃ。
その思いで、最弱聖女と周囲から謗られながらも十六年間、彼に尽くしてきたのである。
無尽蔵に聖力をそそぎ続けなければ健康を維持できない不治の病のゴードンにかける労力がなければ、ローズはもっと多くの人を救えていただろう。
彼の治療のためにローズは持てる治癒力をほとんど使ってしまっていた。そのせいで、聖女としての役目は最低限しか果たせていなかったのだ。ゆえに『最弱聖女』と口さがない者達からは揶揄されていた。
「しかし、ゴードン様……再三申し上げておりますが、私が治療しなくなれば病の症状が出てしまいます」
「くどい! 何度も言わせるなッ! 俺はもう病は完治しているんだ。それにいつか再発したとしても、俺の病気はお前ごときに頼らなくてもルシアにだって治療できる。俺が幼い頃に治療して治したからって偉そうにするな!」
心配して言った忠告も聞き入れられない。これ以上は何を言っても無理だとローズも悟った。
わざわざ忙しい合間を縫って週に一回、彼の治療のために時間を作って会っていたのに、『わざわざ来なくて良い』だの『鬱陶しい』とゴードンからは言われ続けてきた。
それなのに、少しでもゴードンの調子が悪そうなら伯爵夫人から昼夜を問わず呼び出されて治療させられていたのだ。それでも感謝の言葉の一つでももらえていたら報われただろうが、彼らがローズに優しい言葉をかけてくれたことは一度もない。
ゴードンは病人で、父親の恩人の息子だからと自分の気持ちを押し殺してきたけれど、もう心情的にも限界だった。
(むしろ向こうから婚約破棄をしてくれたのは良かったのかもしれないわ)
ローズはそう前向きに思い直した。
ゴードンのことを愛していたわけではない。政略結婚の義務感と病人への同情心で、そばにいただけだ。
「……そんなに私が嫌だとおっしゃるなら婚約破棄いたしましょう。父に伝えておきます」
「ああ、そうしてくれ」
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