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ゆるく波打ちながら腰まで流れる赤い髪、きつめの眦と新緑のような瞳。王妃という立場に恥じない豪奢なドレス。まだ二十歳になったばかりの女性が目の前にいる。
アシェリーは鏡に映る自分の姿を見た時、思い出した。
この世界が前世で読んだ『星降る夜の恋人たち』という恋愛小説の中だということを。
そして自分は夫であり国王であるラルフを苦しめて最後には処刑されてしまう毒婦アシェリー・フリーデンだったのだ。
「私はいったい、何を……」
手の中にあるのは、香水を入れておく小瓶だ。中の液体は濁った紫色だった。先日裏稼業の男から購入した毒薬だった。
これを王宮に滞在しているラルフの親戚であるエルシー・ノリスに飲ませようとしたのだ。彼女が夫であるラルフに色目を使っていたから。
ラルフは今年で二十一歳になるフリーデン王国の王であり、『星降る夜の恋人たち』のヒーロー役だ。ヒロインはアシェリーではなく、後に出てくる聖女だ。
アシェリーはただ二人の仲を引っ掻き回すだけの当て馬で、ラルフに嫌がらせをする悪女だった。
(この場に誰もいなくて良かった……)
引き出しの中に毒薬を入れて、鍵をかけた。後で誰もいない場所に埋めてしまおう。こんな物はあってはいけない。
「……私はとんでもないことを……しようとしていたのね」
そう悔恨の念を込めて、つぶやく。
このタイミングで前世の記憶がよみがえったのは幸いだった。アシェリーが行った悪事は取り返しがつかないし、夫には当然憎まれているけれど、まだ誰も害していない状況は慰めにもなった。
アシェリーは侍女を呼んで、とある物を用意してほしいと頼む。侍女はとても驚いた様子だったが、すぐにその用紙を手配してくれた。アシェリーは受け取った離婚届に署名をして、愛する夫のいる政務室へ向かう。
大きな樫の木扉の両脇には衛兵がおり、「またか……」と、うんざりした表情でアシェリーを見つめていた。彼女はこれまで王であるラルフの都合など考えずにやってきては、傍若無人に振る舞っていたのだ。
(でも、これももう最後だから、許してほしい……)
今のアシェリーにできることは、少しでも早く離婚して彼を解放してあげることだけなのだ。
衛兵が扉を開けてくれると、大きな窓を背にしたラルフが執務机に座った状態で、アシェリーに向かって言った。
「……何の用だ?」
顔さえ上げない彼にアシェリーは胸が痛くなる。けれど、彼にそんなことをされても当然なほど、彼女はひどいことをラルフにしてきた。
結婚して一ヶ月になるのに、ラルフとは夜を共にしたことすらない。彼を脅して無理やり王妃の座についたのだから当然だ。
「国王陛下にご挨拶申し上げます。……お忙しいところ、大変申し訳ありません。これに署名をお願いしたくて、お持ちしました」
アシェリーが離婚届をそっとラルフの前に差し出すと、彼の動きが止まった。紙を凝視している。三秒、五秒……十秒ほど経ってから、ようやくラルフは顔を上げる。
さらさらの銀糸の髪、鋭い青色の瞳が彼女を捕らえた。アシェリーより一つ年上の二十一歳になる帝国の若き獅子だ。
ラルフは離婚届を親指と人差し指でつまんで、アシェリーに尋ねた。
「これは何かの冗談か?」
「いいえ。冗談ではございません。どうか、これをお納めください。……これが私の、陛下への真心です」
ラルフはその紙をおずおずと受け取る。
何の変哲もない離婚届だ。あとは彼が署名してくれるだけで良い。
アシェリーは深く息を吸ってから、声が震えないよう意識しながら言う。
「……これまで陛下のご迷惑も考えずに、しつこく付きまとい、あげく脅迫のように結婚を迫ってしまい申し訳ありませんでした。幼い頃の暴言も謝罪いたします」
アシェリーが神妙にそう言って頭を下げると、ラルフはまるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
ラルフは歴史上類を見ないほど強い魔力の持ち主だった。しかし力が強すぎて幼い頃からたびたび魔力暴走を起こしてしまうことがあり、十年前に母親である王妃を殺してしまった。そのせいで、父親からも冷遇されて生きてきたのだ。
そんな彼が魔力制御にかけては天才的な腕前を持つ治療師のアシェリーに惚れられてしまい、彼の魔力をコントロールしてあげることを条件に結婚するようアシェリーに脅されたのだ。
愛のない結婚。それが二人の関係だ。
ラルフはようやくこれが現実だと認識したらしい。戸惑いながらも、いつものような皮肉を忘れない。
「ほお。俺に言ったセリフをちゃんと覚えていたとは意外だな。お前はとっくに忘れていたのかと思っていたよ」
「……もちろん、覚えていますわ。今さら何を言っても信じてもらえないかもしれませんが、大変申し訳なく思っています」
アシェリーは美しい見た目に反して性格が極悪で、幼馴染のラルフに近付く者はいじめ抜き、わがままし放題だった。
母親を不運にも手にかけてしまったラルフに、「あなたは私の婚約者になるのよ。私が魔力制御してあげなくても良いの? そうなったら、あなたは周りの人をみんな殺してしまうかもしれないのに。あなたのお母様にしたみたいにね」とラルフのトラウマを掘り起こして自分を婚約者にするよう脅し、彼に付きまとっていたのだ。自分以外は彼を助けられないと知っていて。
(これでは嫌われても仕方ないわ)
嫌がるラルフに無理やり口付けしたり、好意を返してくれない彼にさんざん物をぶつけていたぶり、罵った。そう、十年間も。
ラルフはアシェリーの方をじっと見つめる。彼女はそんな状況ではないのに、愛する彼に熱烈に凝視されて胸がときめいてしまう。前世の記憶は思い出したものの、アシェリーの気持ちが失われたわけではないのだ。
だから別れを告げるのが本当につらい。身が引き裂かれそうになる。しかし、これまでにした無情な行いや、これからの処刑される未来を知れば、彼を解放してあげる以外の選択肢など彼女にはなかった。
「……何を企んでいる? 俺の気を引こうとして、そんなことを言っているのか? だったら無駄だ。俺がお前を愛することなど決してない」
冷たく吐き捨てたラルフの言葉が刃となってアシェリーに突き刺さる。記憶を取り戻した彼女は、誰よりその言葉が事実だと知っている。
「……存じております。もう愛してほしいと望むことはありません」
アシェリーの言葉に、ラルフはぴくりと眉を上げて彼女を見つめる。
最大限の警戒を込められた青色の瞳を見て、アシェリーは微苦笑した。何を言っても信じてもらえないのだ。
(……もう疲れちゃった)
愛してくれない相手に愛を乞い続けることにも。
かつてのアシェリーは身勝手で、彼の気持ちを思いやれない非情な女だったが、確かに彼を愛していたのだ。
(本当だったら、この後に聖女が現れて彼の魔力暴走を救い、悪女だった私は悪事を暴かれ処刑されてしまうところだけれど……)
心を入れ替えて離婚するから、処刑だけは勘弁してほしい。
アシェリーは胸に手をあてて言う。
「ご安心ください。離縁しても、週に一度は治療のために足を運びます。もちろん事前に陛下のご都合をお伺いしますし、もう二度と突然来訪するような無礼な行いもしません。謝って済むことではありませんが……どうか、これで今までの行いをお許しください」
深くお辞儀をしたまま頭を上げないアシェリーに、ラルフは目を吊り上げる。
「……それを信じろというのか? 離縁はこちらとしても願ったり叶ったりだが、それで後で反故にされたり、勝手にどこかに行かれて治療を止められては困る」
「信じていただけないことは無理もありません。ですから、誓約を結びましょう」
そう言って、アシェリーはもう一枚紙を差し出した。
この世界では婚姻書類などの重要な契約は魔法紙に署名することで裏切れないようにしている。
もしお互いの同意がなく契約を破れば、体が炎に焼かれるのだ。
ラルフはアシェリーが差し出した魔法紙を見て瞠目する。
「これは……」
「これで私は逃げられません。必ず陛下の治療に馳せ参じますとお約束しますし、その証明になるかと」
魔法紙には週に一度は治療にやってくると記載してある。そして、ラルフの同意なくアシェリーはそれを破棄できない。
ラルフは魔法紙に書かれた文章が信じられないようで、何度も試しに破ろうとして傷一つつかないことでようやく本物だと納得したらしい。
「……君がそれで良いなら、そうしよう」
アシェリーは安堵して顔を上げて微笑んだ。
ラルフはそう困惑した様子で言う。
「本当にそれで良いのか……? 後でやっぱり離婚はしないでほしい、などと言われても受け入れないぞ」
ラルフの言葉に、アシェリーは顔をゆがめて笑う。
「大丈夫です。私が陛下を愛することは、二度とありません。それもお疑いでしたら魔法紙に誓約を書きましょう」
(──嘘だ。本当は、今でも愛している)
アシェリーの心の中には今でもラルフがいた。けれど、それでも離婚はしなければならない。それが彼女にできる唯一の罪滅ぼしだから。
(……愛しているから、さよならを)
◇◆◇
ラルフは政務室から出ていくアシェリーの後姿を見送ってから、はぁと重いため息を吐いた。目の前には離婚届があり、アシェリーの筆跡で名前が記されていた。
「どうなさいますか? 離婚届を大司教様に渡してきましょうか?」
さっさと悪女アシェリーと離婚させたがっていた従者が、ウキウキしながら言う。ラルフは「いや……」と首をひねりながら唸って、結局首を振った。
本来この国の宗教上は離婚はできない。
しかし、白い結婚ならば話は別だ。ラルフとアシェリーが褥を共にしていないことは使用人達なら皆知っている。彼らに証言させれば離婚はたやすい。そのはずだが、ラルフは気が進まなかった。
「なぜです? ようやく、あの悪女から解き放たれたというのに……」
不満げな表情をしている部下に、ラルフは苦笑する。
「なんだか……どうも胡散臭いんだ。裏があるように思えてならない」
「やはり本当は破婚する気などないのに、陛下の気を引きたくてそうしているということですか? アシェリー様は自分から離婚届を渡してきたくせに、いざ大司教様に提出したら陛下を責めるおつもりなのでしょうか」
従者の言葉に、ラルフは困ったような表情でこめかみを押さえた。
「そういう感じではない気がするのだが……」
先ほどの彼女の様子はこれまでと別人のようで、その言葉にも嘘は感じられなかった。
それなのに素直に離婚届をもらえたことを喜べないのは、この十年付きまとわれた経験からだろう。どうしても彼女の言動を信じ切ることができないのだ。
「良かったじゃないですか。振られて」
従者にそう言われて、ラルフはぎょっとした。
「え? 俺は振られたのか?」
「そうでしょう。ようやく陛下に飽きたのかもしれません。吉報です」
「飽きた……」
ラルフは呆然とつぶやいた。
確かに喜ぶべき事態のはずだ。この十年、彼女と離れたいと毎日思い続けてきた。いっそ死んでほしい、とすら思っていた。
しかし、ラルフの魔力暴走を制御できるのは彼女だけなのだ。悔しさで血がにじむほど拳を握りしめながらも彼女の求めるまま結婚するしかなかった。「お前を愛することはない」とアシェリーに告げたのは、せめてもの抵抗だった。
けれど、なぜか胸の奥がモヤモヤとして気分が晴れない。これ以上ない幸運が舞い降りた日だというのに。
(いや……きっと、あの女が離婚しようと言い出したのは本心じゃない)
ラルフはそう判断して、従者に向かって言った。
「王妃にこれまで通り、護衛と見張りをつけろ。だが、決して彼女に知られるんじゃないぞ。毎日彼女の様子を報告するんだ」
従者は目を丸くしていたが、すぐに「承知しました」と言って命令を遂行するために政務室を出て行く。
ラルフは革張りの椅子にもたれて、深くため息を落とした。
(どこか目の届かないところに行かれては困るからな……)
彼女はラルフを癒すことができる唯一の治療師だし、まだ王妃の座にいる。彼女の動きを把握しておきたいと思うのは当然のことだと、ラルフは思った。
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