一人、札幌へ

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一人、札幌へ

「ただいま~」 「本当に突然でびっくりしたわぁ」  新千歳空港には昼頃着き、そこから実家の最寄り駅まで列車で移動した。  母はパートをしているが、覚えている限り休みの曜日だったので家にいるかな? と思って電話をかけてみると、ドンピシャで通じた。  母は車の免許も持っているので、最寄り駅までの迎えを頼んだ。  札幌の実家は交通の便がいい場所にあった事と、一人暮らしをして中央区に住んだ時も徒歩と地下鉄ですべてどうにかなったので、香澄は免許を持っていなかった。  ただこうやって人に迎えに来てもらう事があると、いずれ取った方がいいんだろうなと感じている。  今は母が運転する車の助手席に座り、久しぶりの景色を見ながら会話をしていた。  秋になり、北海道は日差しこそギラつく時はあるものの、どんどん冬に向けて寒くなってきている。 「北海道さすが寒いね。あっちはまだ三十度超えの日もあって、汗をたらたら流してるのに」 「そういう事を言うようになってまぁ、あんたはすっかり東京の人間になったのね」 「そ、そんなこと言わないでよ。道産子魂は捨ててないんだから」  まるで地方の芸人が東京に染まった、のような言い方をされ、思わず香澄は笑う。 「それにしてもよく休暇が取れたわね。Chief Everyは大企業だし、忙しいんでしょう?」 「うん、ちょっと里心がついて有給とー……んー。ちょっと特権を使って一か月お休みもらったの」 「特権ってあんた。一か月は休みすぎなんじゃないの? 秘書なんでしょ?」 「うん……。ちょっと……。療養期間」  さすがに一か月の休暇をごまかせずそう言うと、栄子も何か察したようだ。 「……まぁ、お休みもらったならもらったで、ゆっくり休んで英気を養いなさい」 「うん、そのつもり!」  西区にある家に着いてリビングのいつもの場所に座りグタリとしていると、「コーヒー飲む?」と母が訊いてきて「うん」と即答した。 「脚はもういいの? 見たところ問題なく歩いているようだけど」  母は台所でお湯を沸かし、電動ミルで豆を砕きながら尋ねてくる。 「全然平気だよ。あとでボルトを取る手術もあるんだけど、それはもうスピード入退院で済むみたい」  母にとって〝香澄に起こった何か〟は、ドイツで事故に遭ったところで止まっている。  それがありがたかった。  まさかマティアスの事や、イギリスで記憶を失い心神喪失になりかけた事を話せるはずもない。  何も話さず申し訳ない気持ちもあるが、できるだけ心配をかけたくなかった。  ただでさえ娘が大富豪に見初められて東京に行ってしまい、気を揉む事も多いと思うのに、それ以上の事を耳に入れたくなかった。  佑もそれは分かってくれているらしく、アンネたちも了承してくれているようだ。  ただ、佑は誠実な彼らしく、随分迷ったようだが。 「あ、そうだ。空港でお菓子たくさん買ってきたから食べようよ!」  東京と言えば、な有名なお菓子から、香澄が独断と偏見で「美味しそう」と思ったお菓子の箱を、ドサッとテーブルの上に置く。 「こっちは友達の分」  ソファの脇に置いてある紙袋をポンポンと叩き、久しぶりに会う地元の友人の顔を思い浮かべ、笑顔になる。  そのうちコーヒーの香ばしい匂いが漂い、栄子と二人で親子水入らずの会話をしながら、お菓子を楽しんだ。 **  その日の夜は香澄が金を出し、出前の寿司を取ってちょっとだけお祝いのムードになった。  弟の芳也も駆けつけ、寿司を頬張る。  父は香澄の働きっぷりを聞きたがり、佑の仕事ぶりや聞こえてくるニュースなども話題に出す。  朝に佑と穏やかに別れられたからこそ、父に振られる話題にも動揺せず受け答えする事ができた。 「もしもし? 麻衣?」  夕食後、香澄は麻衣に電話をかけていた。 『香澄? 久しぶり! 最近連絡なかったから、忙しいのかな? って思ってたよ』 「まぁ、そんなもの。連絡しなくてごめんね。いま札幌戻ってるんだけど会えないかな? 東京の空港で買ってきたお菓子もあるの」 『ホント? 行く行く! 東京のお菓子食べたい!』  屈託なく言う友人の相変わらずさに、香澄の顔に笑顔が広がる。 『いつまでこっちいるの?』 「んー、一か月くらいは。ちょっと長いお休みをもらったの」 『いいなぁ。じゃあさ、今週の土日使って定山渓(じょうざんけい)の温泉に泊まりに行かない? 女子会して、お酒でもゆっくり飲みながら話そうよ』  定山渓とは、札幌市の南区にある温泉地区だ。 「大賛成! 私、良さそうなところ探して押さえておこうか? あとで予算教えて」 『分かった! 土曜日にランチしてから私の車でホテル向かおう』 「私、ラーメン食べたい!」 『あはは! 分かった! それも香澄の行きたいお店見繕っておいて?』 「うん、分かった。ありがとう!」  親友と会える約束を取り、香澄は嬉しくて堪らない。  そのあとも共通の友人の近況などを話していたが、麻衣は明日も普通に会社があるので、早めに通話を切り上げておいた。  アプリを開いて『土日楽しみにしているね』と語尾にハートマークつきでメッセージを送り、キャラクターが投げキッスをしているスタンプを送る。  すぐに既読がつき、麻衣からも『私も!』とキャラクターが盛り上がって、ハイテンションになっている動くスタンプが送られてきた。  スタンプの動きのコミカルさに香澄はケラケラと笑い、自分のベッドに仰向けになる。 「…………いいのかな」  今頃、佑は出迎える者のいない家に戻っているだろう。  彼の寂しさと引き換えに、こんな楽しい気持ちになっていていいんだろうか。  自然に手が動き、今朝撮ったばかりのツーショット写真を画面に映す。 「……佑さん」  彼の名を呟いたが、それ以上写真を見ていると恋しくなりそうで、慌ててスマホを閉じた。 「……療養期間なんだから。……彼から離れて、心の栄養をたっぷり取る時なの」  自分に言い訳をし、香澄はハァ……と溜め息をついた。  随分ガランとしてしまった香澄の部屋は、大学を卒業してからここから巣立った事を示している。  西区にある実家と、中央区にあった香澄の住処は車で移動すればすぐの距離だが、独り立ちした子供の距離だとも思っている。  特に「就職したら家を出なさい」と言われていた訳ではない。  学生のうちに母から料理や家事のあれこれを教わっていたので、就職する頃には自分から「一人暮らしをしたい」と思うようになっていた。  八谷に就職したあとは、札幌を離れなければいけなかった。  八谷グループの店舗がある他の地方都市を転々とし、店長業務を続けてその成績が良いところに目を付けてもらい、エリアマネージャーに昇格した。  希望の勤務地を尋ねられ、それで生まれ故郷の札幌を希望したのだ。  その頃にはある程度貯金もできていたので、中央区にあるやや家賃の高い賃貸マンションを住処にできた。  最初こそ、数年ぶりに娘が札幌に戻ってきて、近くに住んでいる娘の世話を焼こうと、母が頻繁に訪れていた。  けれどそのうち、香澄が一人でも立派にやれていると分かると、その頻度も低くなっていった。  この部屋にいると、自分がのし上がる事ができたという自身が湧き起こる。  あのまま八谷にいれば、いずれ東京の本社に異動となっていたかもしれない。  だが香澄は佑の手を取ってしまった。  紆余曲折あり今がある。一度外れてしまった道には、もう戻れない。  何より心から愛する人を見つけ、その人の手を離すつもりもない。 「……随分、遠くに来ちゃったなぁ」  スタート地点に寝転びながら、心はとても遠いところにある。  とはいえ、今は療養期間なので札幌で何をするかを考えるべきだ。 (最初の一週間は、まず札幌を満喫しよう。見たい映画を見て、普段着る用の服も少し買い足そう。それから麻衣と女子会をする。……二週目から何か行動を起こさなくちゃ) 「……そうだ」  不意にある事に思い至り、香澄は飛び起きた。  部屋を出て「おかーさーん」と呼びながら、階段を下りる。 「どうしたの?」  昼間録画した海外ドラマを見ている栄子に、香澄は自分の思いつきを話した。 「ねぇ、お父さんの弟の秋成(あきなり)叔父さんって、ニセコで夫婦でペンションやってたよね? それ、お手伝いいらない? 私、英語話せるしドイツ語もいける。一か月こっちで、何かしたいの」  せっかくの休みだというのに働こうとする娘を見て、両親は顔を見合わせる。  ニセコは現在海外からの土地の買い手が増え、自然の豊かさに惹かれて外国人が住んでいる事でも有名だ。  もしかすれば、言葉を話せる事で叔父の役に立てるかもしれない。  このまま札幌でグズグズと実家で過ごすのではなく、それこそ初心に戻ってアルバイトのような形で働いたら、きっと自立心が育っていくのではないだろうかと思ったのだ。
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