カキツバタを見に

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カキツバタを見に  ペダルを踏むとグイと前に出る、その感触が心地よい。爽やかな五月の風を切って緑の並木道をまっすぐに北へ走る。急なカーブを右に折れると、眼の前にきらきらと陽光を照り返す水面が広がる。向かいの山の緑と青い空に浮かぶ真っ白な綿雲が水の面に映っている。  「あ、咲いてる!」  あおいの声が弾む。浮島の手前に、カキツバタの白い花がかたまって咲いている。すっきりと伸びた茎の先に白く華やぎのある花がいくつも。緑一色の中で柔らかに垂れた花弁が白く輝くようだ。花の中央には内花皮が燕の尻尾のようにピンと立つ。  池はどんより濁っている。水面のすぐ下は藻で覆われて底が見えない。こんな濁りから凛として汚れのない純白の花が生い立つのが不思議。  「この池は氷河時代からあるらしいよ。」  岸に立つ解説板を見ながら、あおいが言う。  「そこのミツガシワが一万年以上前から毎年花を咲かせてきたらしいから。」私は大学の実習でここは何度か訪れている。  「えっ?どこどこ?」  「ほら、あの小さな白い星を一杯つけたような花があるでしょ。」  あおいは身を乗り出して私の指すほうを探した。」  「でも、なんでそんな大昔から毎年花が咲いていたなんて分かるの?」  「はい、いい質問です。それはね、地層を調べると分かる。一万年以上前から今まで、毎年の地層にミツガシワの花粉が残っているの。」  「おお、さすがリケジョ!」  あおいはいつもそう言って冷やかす。  歴史オタクのあおいと違って、私はこの都市で暮らすようになるまで、京都と言えば漠然と平安京のイメージしか持っていなかったような気がする。  「深泥池みたいな自然の尺度からみれば、建都千二百年もほんの僅かな時間だよね。」  「この辺を走り回っていた旧石器人も縄文人も一万年以上前にミツガシワが咲くのをきっと見ているよね。平安京はそんな時代よりもずっと現代に近いわ。なんにも残ってはいないんだけどね。」  あおいはちょっとなさけなそうな顔をする。私には意外だ。  「京都にはいくらでも古い都の遺産があるじゃないの。」  「京都に残っているのは近代遺産だけよ。戦災を免れたからね。平安時代の建物なんて一つも残っていないのよ。」  「上賀茂神社は古いんじゃないの?」  「神社の歴史は古いけど建物はみな江戸時代のものよ。でもね、建物が建て替わっても上賀茂神社は上賀茂神社なんだよ。」  「コピーがほんものになるの?」  「魂が宿りさえすればね。」  深泥池から今日の本命であるカキツバタの名所、大田神社までは、山端の道を西へ、自転車でわずか十五分ほど。鳥居をくぐると、参道には木漏れ日が射して美しい文様をつくっている。本堂は正面、あまり勾配のない幅広い幾段かの石段を上がったところで杉の木立に囲まれている。そこはもう背後の山の一部だ。  鳥居をくぐってすぐ右手の金網戸を開け、志納金三百円を小箱に入れて中へ。目の前に緑と紫のカキツバタ群落が向こうのほうまで伸びている。池というより、水を張った水田にびっしりと植えこまれたように、つやつやした剣状の長い葉と真っ直ぐな茎が伸びて殆ど水面を隠すほど密生している。  その緑に濃い青紫の花が落ち着いた色どりを添える。右手の高みが見物スポットらしく、ベンチに座る老夫婦のほかに二組の男女が池の眺めを楽しんでいる。  二万五千株とされるカキツバタが一斉に咲き乱れる光景は壮観だ。  このカキツバタの群落は、大田の沢と呼ばれた辺り一帯に自生していたらしく、平安時代には既にカキツバタの名所として知られていたそうだ。いまは二千平米ほどの池に咲くだけだけれど、恐らく千年前にはこのあたり一帯がカキツバタの群生する湿地帯だったに違いない。  その大田の沢は、もっと古くは深泥池とつながっていたと考えられているそうだ。京都盆地は巨大な湖だったと聞いたことがある。いまはない南の巨椋池も、深泥池も、この大田の沢も、みなはるか古代以前の京都の姿を垣間見せてくれているのだろう。「タイムトンネルの入口」という言葉が頭に浮かぶ。  前にあおいから衝撃的な一枚の写真を見せてもらったことがある。それは京都の町なかの工事現場だ。地面を掘ったら遺物が出て工事がストップし、文化財保護課の調査が入ったらしい。地表を一枚はぎ取り、その下の層をむき出しにした水平面を高所から撮った写真。表皮をめくられた地面に無数の黒い穴ぼこが口を開いている。  「これ、なんだかわかる?」とあおいが言った。  「・・・井戸の跡?」  「そう、平安時代から今まで入れ替わり立ち代わりここに住んだ人たちが掘ってきた井戸。千二百年の時間の切り口だね。タイムトンネルの入口みたいでしょう。」  あおいはそう言って、京都は「時間の都市」と呼ばれているのだと教えてくれた。いたるところに、異なる時代の痕跡、色々な時間の切り口がある都市なのだ。  それにしても、上賀茂のこのあたりの時間は桁違いに古い。もしこのタイムトンネルに入れば、千二百年前の都の造営を超えて、カキツバタがこの辺り一帯に咲き乱れていた数千年の時の彼方まで行きつくのかもしれない。  「この辺りは平安京以前から賀茂一族が支配していた所らしいよ。でも、その賀茂一族も移住者で、もっと以前から住んでいた部族が幾つもあるって。真偽のほどはわからないんだけどね。入口の解説板に、この神社が賀茂最古の神社だって書かれていたけど、賀茂一族がやって来る前にこのへんに住んでいた農民たちが、自分たちの長寿福徳を願って祀っていた古い神様のお社だったらしいよ。」  「こんな小さなお社にも賀茂一族がやってくる前に住んでいた人々にまでつながるタイムトンネルの入口があるんだね。」  あおいは自分が使って教えた比喩を私の口から聞いて嬉しそうにうなずく。タイムトンネルをくぐって遠い過去に行けるなら、向こうから誰か来てもいいんだけど。そう考えると何だか楽しくなる。  ベンチに長く座って池を眺めていたご老人夫妻が席を立つと、ふと空白の時間が生まれたように、周囲に人影がなくなっている。私たちはベンチに並んで腰をおろす。  私はこのカキツバタの深い紫が好きだ。これほど沢山の花が咲き乱れていても、少しも派手な印象がなく、どちらかと言えば地味で、あたりはしっとりと落ち着いた雰囲気なのだ。  「アヤメ、あの人ここの巫女さん?」  みると、池の縁を東のほうへ回り込んだ木陰に巫女さんの姿が見える。深紅の袴が鮮烈だ。白と赤の装束が凛として美しい。  驚いたことに、その巫女の髪は真っ白だ。近づいてきた彼女を間近に見ると色白の綺麗な面に深い皺が刻まれている。齢九十を過ぎているのではないか。 私たちは慌てて立ち上がり、席を譲る。  「ありがとうよ。」  皺だらけだけれど美しい顔の奥で、細くよく光る眼が笑っている。  「あんたたちも座りなさい。」  促されて私たちもかしこまって彼女の横に並んで腰かける。  「あんまり年寄りの巫女だから驚いておるのじゃろ?」  「ごめんなさい。お年寄りの巫女さんを見るのは初めてで」  つい、まじまじと見てしまう。あおいが正直に謝ると、おばあさんは、そうじゃろ、そうじゃろとおおらかに笑う。前歯が無くて、残った歯の間から隙間風のようなヒヒヒという声が漏れる感じだ。  「失礼ですけど、お幾つになられるのですか」  私が尋ねると、  「歳か!忘れてしもうた。婆くらいになると数えるのが面倒になるのよ。」と言って、またヒヒと笑う。  「ここのお社はな、長寿を祈るお社じゃから、祭の神楽も爺婆の役目でな。」  「え、お祭なのですか?」  「おや、賀茂の祭も知らずに来ておるわけではあるまいが。」  そう、きょうは五月十五日、葵祭の日だ。例年なら上賀茂神社で流鏑馬などの行事が行われ、巡行する行列が最後に入るその神社には大勢の観光客が訪れるはずだ。  でもコロナの感染拡大で三年続けて巡行は中止、あおいも私も去年の春に京都へ出て来たから、まだ見られずにいる。上賀茂神社では内輪の神事は行われるようだから、摂社であるこの大田神社でも何か内輪の行事だけは行われるのかもしれない。  「でも、お婆さんが神楽を舞われるのですか?」 私は驚いて尋ねる。すると、まるでそれを訊いてほしかったとでも言うように、彼女は得意げに、  「もちろんじゃよ。わしはこう見えても、神楽の舞いではほかの者にひけをとらぬ名手よ。」  これにはさすがに驚かされる。が、ここの御神楽がどういうものかは知らないので、嘘でしょう、というわけにもいかない。  神楽といえば、床に足を滑らせて円を描くような動作を基本とする、概ね悠長な舞だろう。あの緩やかな動きであれば、長年修行してきた巫女さんなら歳をとっても舞えるのかもしれない、と一人納得してみる。  「あんたたちはここの御祭神が誰か知っておるかね?」  「はい、アメノウズメノミコトですね。」  「そうそう。」  「天の岩戸の前で御神楽を舞った方ですよね。」  あおいが念を押すように言う。  「そうそう。アメノウズメは舞い踊りが得意でな。いまも芸能の神様として崇められておる。最近もダンスなんかやっとる若い者が上達を願って、よくここへ来るんじゃよ。」  「へぇ、そうだったんだ!」  あおいも、そこまでは知らなかったようだ。  「それにしても、なぜこの神社でアメノウズメノミコトをお祀りするようになったのでしょうね?」  あおいはこの神社の巫女さんなら知っているかもしれないと考えたのだろう。  「ここは上賀茂神社の摂社になっとるからの。賀茂別雷大神(かもわけいかづちおおかみ)が神山(かむやま)に降臨なさったときに、例によって猿田彦がお導きしたんじゃよ。どんな歴史書にも記されてはおらんがな。」  「猿田彦と言えばニニギノミコトが高千穂の嶺に降臨されたとき、道案内役をつとめた神様でしたね。」  あおいは私と違って、神様の名もスラスラ言える。  「おう、そうよ。よく知っておったな。」  「それにしてもアメノウズメノミコトをお祀りすることと猿田彦と何の関係があるのでしょう?」  歴史オタクあおいの好奇心がおばあさんの言葉で刺激されたらしい。  「おやそんなことも知らんのかい。ウズメと猿田彦は夫婦(めおと)じゃよ。」  「あっ」、とあおいは声を挙げ、「じゃ、アメノウズメノミコトは猿田彦についてここまでいらしたのですね・・・」  お婆さんは、うんうん、ようやく合点がいったかね、というようにうなずく。  「そういえば、この神社の境内には、猿田彦の小さなお社もありますね。」  私は、前にあおいとこの神社を訪れたとき仔細に調べた参道の幾つかの社に祀られた神々の中に、猿田彦の名があったのを憶えている。  「でも、それならどうして猿田彦を本殿に祀らなかったんだろう?アメノウズメノミコトは本殿に祀られて、ご主人の猿田彦はあんな小さなお社に?」  あおいがそう言うと、間髪を入れず、  「尻に敷かれておるに決まっとるじゃろうが!」  そう言い放って、お婆さんはヒヒヒッと一層大きな声を立てて笑い、あおいも私もつられて声高く笑う。  「儂(わし)はそろそろ用意をしに行かにゃならん。あんたたち近くに住んでいるなら、またいつでも訪ねておいで。名前を聞いておこうか。」  そう言ってお婆さんはよっこらしょ、と立ち上がった。  「あおいです。」  「アヤメです。」  「おう、よい名じゃな。この神社にもなんとはのう縁のありそうな名ではないか。」  うなずきながら歩き去って行く。私たちもそろそろ帰ろうか、と少し後をついていき、参道を行くお婆さんの後ろ姿を目で追う。社務所へ行くのかと思ったら、もう本殿への石段を上がって行く。腰を屈めたあまりスマートとは言えない歩き方にしては進み具合が早くて驚く。案外健脚なんだ。  あ、いけない。私たちだけ名前聞かれて、お婆さんの名前を訊くの忘れてる。  「お婆さん!お名前を教えておいて下さいな!」  「お名前は?」  二人そろって大声で呼ぶ。  お婆さんはゆっくりと振り向き、ニッと笑ったように見える。  「ウズメじゃよ!ウ・ズ・メ」  大声で返事をしたと思うと、彼女の両足が跳ね上がり、その場でピョーンと垂直に跳び上がる。  「エッ!」  思わず私たちは顔を見合わせ、「いまの、何?」  そして二人が参道のほうを振り返ると、もうどこにもウズメさんの姿はない。 (了) © 2022.Sei Matsuno. 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