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自宅マンションの扉を開ける。腕時計は二十三時二十分を示していた。今日の帰宅は早い方だ。漏れた溜息はいやに熱かった。鞄を放り投げ服を脱ぎ捨てる。まずはシャワーを浴びよう。いつもなら帰宅すると寝るだけなのだが、今日は少しでも疲れをとりたかった。何故なら。
明日は休日だ。
三週間ぶりの休みである。カレンダー通りに休日が訪れるのが普通ならば、俺の休みは非常に少ない。季節労働的に、ある時期のみ極端に忙しいのなら踏ん張れる。しかし年がら年中この調子だ。転職を考えた。だが転職活動をする暇が無い。休みが取れない。上司も同僚も休んでいいよとは言う。しかし仕事は次々と、容赦なく湧いてくる。誰かに手伝ってもらおうにも皆が同じ調子で働いている。誰もが不満を口にしつつ、朝から深夜まで手を動かし続けている。
休日はいつも一日寝て過ごした。疲れているから。だけど三週間前の休日が終わりに差し掛かった時、涙が零れた。働いて、働いて、一生懸命毎日働いて。やっと訪れた休日は寝て起きて飯食って寝て終わり。俺は誰だ。何のために生きている。いつしか声をあげて泣いていた。生きるために仕事をしているはずなのに、俺の人生には仕事しか残っていない。手段と目的が逆になっている。寂しい。苦しい。辛い。逃げたい。でも俺がいなくなったら他の人が困る。俺だけが逃げ出すわけにはいかない。皆、同じように耐えているのだ。だから俺はどれだけ嫌でも重い足を引き摺り会社へ出勤する。
連続出勤十一日目の昼。パソコンの画面を見ながらサンドイッチを頬張っていた時、突然閃いた。休日を充実させてみてはどうか。今の仕事から逃げられないのなら、せめて休みの日に人生の意義を見出そうではないか。いつもは寝ている通勤の電車内で、余暇の過ごし方を検索した。スマートフォンは便利だ。世の人々は、休日に出掛けるらしい。行き先は美術館や大きな公園、海、山、遊園地に水族館など。また、友人とキャンプやバーベキューをするなどの活動的なものもあった。加えて、家族連れは大型のショッピングモールで買い物をしたりするそうだ。
最近、痺れが取れなくなってきた脳で考える。美術館には興味が無い。公園に行っても散歩をするだけ。その辺の道でいい。海に行っても今は冬だ。泳げないし寒い。山は疲れる。これ以上疲れてどうする。遊園地に一人で行く勇気は無い。水族館は俺の家から電車で二時間かかる。滞在より移動の時間が長くなってしまう。キャンプはやり方がわからない。バーベキューは友人がいない。ショッピングモールに行っても買いたい物、必要な物が無い。
電車の中で泣きそうになり、鼻の付け根をつまんで堪えた。本当に、俺は何故生きているのだ。三十二年間の人生で、俺の中に残ったものが何一つ見当たらないではないか。これだけ選択肢があって、どうしてどれにも惹かれないのだ。
駅を出て、会社へ歩きながら考え直す。せめて、どこかには行こう。興味が無くても行けば何とかなるもの。ショッピングモールが無難か。室内だから暖かい。店も色々入っている。覗いてみれば関心をもつ対象があるかも知れない。そうさ、自分が空っぽなら注ぎ満たせるものを探せばいい。そのためにもショッピングモールは最適だ。物は言いよう、考えよう。覚えた悲しみは希望に変えればいい。次の休みは今のところ明後日だ。今日と明日は少しだけ明るく過ごせるかもな。
その日の昼過ぎ、取引先から連絡があった。要望を聞きながら、スケジュールを確認する。電話を切った後、思わず両手で顔を覆った。
明後日、休めなくなった。
ようやく抱いた人生の希望は、早くも悲哀へと転じた。ショッピングモール、楽しみにしていたのに。
しかし泣き言を垂れ流しても仕事は終わらない。子供ではないのだ、嫌を通すわけにはいかない。それが大人であり、社会人だ。そう思い、ずっと我慢して来た。本心は相手の担当者の目を抉り耳と鼻を削ぎ口は縫い付けてやりたいところであるが、我慢で社会が成り立っているのだから仕方無い。残念ながら俺は歯車の一部なのだ。それにしても、初めて人間を歯車に例えた奴はよっぽど社会をよく見ていたのだと思う。社会という機械の中で、大きな歯車はのんびりと回っている。小さな歯車は忙しなく、大きな歯車の何倍も回転している。俺は小さな歯車だ。休みも無く、必死で回り続けている。毎週休みがあるのは大きな歯車。悠々としていて羨ましい。だが俺が欠けると周りの歯車は空転して噛み合いが難しくなる。機械全体の動きに影響は無いけれど、周囲の歯車は困ってしまう。回れないことはない。でも回りづらい。だから周りの歯車のために、俺は明後日も働くのだ。
でも今だけは、少し呆けさせてほしい。
「また休みが無くなったか」
隣席の同僚が声をかけて来た。
「わかるか」
「電話の直後に顔を覆っていたら、察するよ」
自分の反応があからさま過ぎて赤面した。まあな、と適当に返事をして画面へ視線を戻す。いつか誰かが社会という機械をぶっ壊してくれないかな、と思いながら。
それから更に九日が経った。退社するまで気が気ではなかったが、帰宅して電話の電源を落とした今は自信を持って言える。明日は今度こそ休日だ。いつもより熱くしたシャワーを浴びる。血行を良くすれば疲労がとれるのではないかと思ったからだ。皮膚がやけに痒くなる。意識を失う寸前だったのに、凄い勢いで目が冴える。熱湯シャワーが効いているのだ。これで充実した休日を迎えられる。
風呂を出たら台所へ向かった。普段は空の冷蔵庫。だが今日は開けるとビールが六本も鎮座していた。さっきコンビニで買って来た。ケースで買うと割引されるので、思い切って手を出した。普段は家に帰っても寝るだけ。酒なんて飲む余裕は無いし、翌日に酔いを残したら仕事がままならず更に残業と出勤が増えてしまう。
でも明日は仕事が無い。なんあらあと五分で日付が変わるから、休日のスタートを晩酌で迎えられる。素晴らしい。最高だ。風呂上がりのビールなんて何年ぶりだ。
プルタブの蓋を開ける。炭酸の破裂音が心地好い。乾杯、と一人缶を掲げた。
目を覚ます。頭が痛い。やけに寒いと思ったら、掛布団がベッドからずり落ちていた。カーテンを開け、景色に違和感を覚える。空の色は少し橙がかっている。ゆっくり時計を確認する。十五時三十分。
「嘘だろ」
慌てて別の時計を見る。どれも十五時三十分を指している。時間に間違いは無い。
寝坊した。
テーブルの上には昨日買ったビールの空き缶が積み上げられていた。下から三本、二本、一本、と三段重ねになっている。曖昧な記憶を探る。スナック菓子を食いながら飲むビールがあまりに美味くて、また自分が晩酌をしているという状態に楽しくなって、全部飲んでしまったのだ。この三段重ねを作って、ビールタワーだ、と拍手したことを思い出した。案外、覚えているものだな。
感心している場合ではない。休日が、俺の楽しみにしていた休みの日が、既に半分以上終わっている。晩酌も楽しかったけれど、今は後悔の方が強い。ショッピングモールへ行かなくては。色々調べたのだ。自宅からの距離と規模を考えて、電車で二十分のモールを目的地に据えた。フードコートの、名前を聞いたことも無い中華料理屋がやたら美味そうで、昼飯の候補に決めた。ブックカフェとやらではコーヒーを飲みながら本を読めるそうなので、のんびりと漫画や雑誌を読み比べるつもりだった。雑貨屋にも寄りたい。学生の頃、俺は雑貨が好きだった。社会人になって、好きだったこと、それ自体を忘れていた。小物や内装を見たいのだ。手揉みマッサージも受けたい。お洒落な食料品店で菓子を買いたい。余裕があれば映画も観たい。でも、終わる。何もしないまま、休日が終わってしまう。嫌だ。待ってくれ。今行くから。
洗面所へ駆け込んだ。顔を洗い歯を磨く。折角出掛けるのだから、髪の毛をセットしようと思いワックスを買っていた。しかしその時間も惜しい。もう手櫛でいい。寝癖がついているが誰も俺のことなど見ていやしない。
ジャージを脱ぎ捨て着替える。財布とスマホをポケットへ突っ込み、玄関へ走ったところで足を止めた。
腹が痛い。
今度はトイレへ駆け込む。痛い。これは物凄く痛い。食べ物に当たったのか。いや、生ものは食べていない。そうか、久々に多量のアルコールを摂取したことによる胃腸へのダメージだ。それに加えて、かけ布団を吹っ飛ばして寝たので冷えたに違いない。思考で痛みから気を逸らそうとしたが、腹痛の波は全てを飲み込み、また繰り返し襲って来た。腸が便器に吸い込まれる、とわけのわからない思考が過ぎる。晩酌で盛り上がり過ぎた自分に腹が立つ。何故ビールをケースで買った。どうしてシャワーを浴びてすぐに眠らなかった。はしゃいでビールタワーなんて建てているんじゃねえ。
ふらつきながらトイレを出る。窓から空を見ると、とうとう橙から紺に変わり始めていた。酒飲んで寝て起きてトイレ入って、その間に陽は昇り、そして沈もうとしている。充実した休日はどこへ行った。俺の元にはビールタワーしか残っていないぞ。
現在、十六時十分。深呼吸をする。と、腹がまた鳴った。やめろ。もう出し尽くしたはずだ。落ち着くことも許されないのか。
スマホでモールのサイトを開く。営業時間は二十一時まで。今、家を出れば十七時までには到着出来る。四時間も滞在出来る。充分だ。起床時間の衝撃が強すぎて取り乱したが、冷静に考えれば焦る必要は無い。陽が暮れたところで、休日はまだ終わらない。ここから充実させればよい。
折角なので、やはり髪をセットして行こう。洗面所でワックスを手に取る。クリームを出してから気が付いた。どうやってセットすればよいのか。学生の時に何度か試みたが、その度周囲に変な髪型だと笑われた。嫌なことを思い出した。しかし既に大量のクリームを両手に伸ばしてしまった。今からスマホで検索するには、一度洗い流さなければならない。それは勿体無い。もういい、取り敢えず付けてしまえ。たっぷりと塗りたくり、髪を後ろへ流してみた。広くなった額が顕になり、寂しさを覚える。あらかた付け終えたところで手を洗う。髪型を検索し、自分と同じくらいの額を持つ者を参考に決めた。再セットしようと髪をいじる。しかし既に固まっており変形を受け付けない。馬鹿な、付けたばかりだぞ。ワックスの入れ物を確認する。スーパーハードで手早くガッチリセット、と書かれていた。いくら何でも手早過ぎる。融通が利かないならせめて猶予はくれ。
照明が額で反射している。こんなにも額を誇示した状態で人前になど出たくない。そうだ、確か水をかけると多少柔らかくなったはず。試しにまぶすと案の定少しふやけたので、急いで検索結果に表示された知らない男の髪型を真似た。
照明の反射は無くなった。オールバックが基盤になった。そして前髪は垂らしたが、中途半端にワックスが固まっていたので大きな毛束が五つ額に並んだ。バナナかな。
これ以上髪に時間を割いても仕方無い。誰に会うわけでもなし。それならやはり手を付けなければ良かったのだが、元も子もないので考えないことにした。既に十六時半だ。こうしている間にも滞在時間が減って行く。いい加減出発しよう。ここから俺の休日が始まるのだ。
日暮れ寸前の街を歩く。風が冷たい。だが俺の足取りは軽かった。勿論疲れは感じているが、自分が遊びに行くという状況にあるというそれだけでもう楽しかった。気持ちが明るくなった。いつも寝ていた休日が悪いとは言わない。体には必要なことだった。だけどこの気持ちを知らずにいたのは勿体無かった。今日は俺も充実した休日を過ごすのだ。どうだ、凄いだろう。胸中で、誰とはなしに自慢する。
電車は何時に来るのかな。すぐ来るといいな。浮かれながら駅舎へ入る。改札の手前に人集りができていた。ホワイトボードに駅員が何か書いている。
「十六時二十五分に沿線上で発生した人身事故により、現在上下線とも運転を見合わせております。現場検証のため、復旧の見通しが立っておりません。」
駅の近くにベンチがあった。腰掛け天を仰ぐ。腹を壊さなければ。髪をセットしなければ。モールに行けたじゃないか。何だよ十六時二十五分って。本当に、起きたばかりの事故じゃないか。最初に家を出ようとした時間には、電車はしっかり動いていた。腹痛は昨夜の自分が悪い。髪のセットも思い立った俺が阿呆だった。自分自身へ筆舌に尽くしがたい怒りを覚える。
しかし、と改札を見やる。駅員さんに食ってかかるオヤジがいた。お前が駅員さんを怒鳴りつけたところで電車は動かない。駅員さんは悪くない。電車が止まっているのは仕方が無い。人が轢かれたのだから。そしてその轢かれた人を責める権利はお前なんかにありはしない。理性の無い、感情任せの人間は存在するに値しない。人間なら知能と理性を使え、この間抜け。
俺は轢かれた人を責める気は一つも無い。そう。つい今しがた、誰かが電車に轢かれたのだ。まだ生きているかも知れない。もう死んでしまったのかもしれない。飛び込んだのか。不慮の事故だったのか。わからない。確かなのは、命が一つ消える瀬戸際にあるということ。死なないで欲しいと思う。会ったことの無い人の無事を祈るのも妙だが、地獄みたいな毎日でも死んでしまうより生きている方が楽しいのではないだろうか。現に俺は休日に楽しみを見出しかけた。実際に楽しいかどうかはモールに行けなかったからわからないけれども、店を調べたり計画を立てたり大事なことを思い出したりした時間はいつもより輝いていた。もし事故に遭った人が日々の辛さに辟易として飛び込んでしまったのだとしたら、俺に向かって、勝手なことを言うなと怒るだろう。その人の気持ちはわからない。俺はその人の人生を歩んでいないから。或いは、休日を充実させようと思い付いていなかったら、俺も遠からず同じ道を歩んでいたかも知れない。でも、やっぱり生きて欲しい。嫌なことから逃げなよ。楽しいことを見付けようよ。俺みたいな馬鹿でも生きているのだから、あなただけが死んでは報われない。
立ち上がり、尻を叩く。無様な怒声が聞くに耐えなくなったから。折角の休日だ。飯でも食いに行くか。散歩もいい。そう言えば、向こうに本屋があったな。行ってみるか。軽い運動には丁度いい距離だ。まだ休日は終わっていない。モールに行けなかったらもう御終い、なんて決まりは無い。少しでも楽しもう。
今日は休日なのだから。
翌日。通勤の電車内でスマホを点ける。どうしようか非常に迷う。調べるのは失礼だと感じる。だけど、やっぱりどうにも気になって、俺は単語を打ち込み震える手で検索ボタンを押した。ニュース記事が表示される。
「昨日午後四時二十五分頃、○○県××市の△△駅で男性がホームから電車に飛び込み車両と接触した。警察によると、男性は搬送先の病院で死亡が確認された。乗客乗員四百名に怪我は無かった。」
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