月のような

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 『純愛』という言葉を使う人間が嫌いだ。  大半が綺麗なものとして扱うけれど、世の中に綺麗なだけのものなんて存在しない。  そして『純愛』は、お互いが生きている間は断言できるものではない。  どちらか片方、又は両者が死んでから勝手に周りが唱えるものだ。  私は『純愛』という言葉の意味が、辞書の通りに世界に存在していると思わない。  『偏愛』という言葉を貶す人間は幸せだ。  平等に愛さなければならないと、世の中は私達に囁いてくるが、そんなことができるのは神の子だけだ。  偏愛は日常の至る所に存在しているのに、その存在を公言するのはタブーとされる。  誰もが偏った愛情を何かしらに抱いているのに、それは汚いものだと覆い隠して目を逸らす。  目を逸らして、自分の中には無いものだと言える人間は救いようのない幸せ者だ。  私は『純愛』によってこの世に生を受け、『偏愛』によって存在を隠された。  子供に罪はなく、誰の子供でも平等に愛するべきであると立派な人が言ったとしても、それを形にできる人は多くない。  隠され、外に出ることを許されず、ただひたすらに同じ毎日を繰り返す。  私は毎日欠かさず本を読む。  物語に出てくるヒーローは『太陽』に例えられることが多い。  どんな状況でも、どんな人にでも分け隔てることなく公平に接する博愛主義者。  だが『太陽』に近づいてはいけない。  『太陽』が『太陽』であるための定義が存在するからだ。  その定義からすると、人は『太陽』には為れない。  せいぜい『月』がいいところだ。  手の届かないものからの助けを借りて、不安定に光り輝く存在というのが人間らしい。  私は『月』にも『太陽』にも為りたくない。  どんな光も吸収してしまう『暗闇』になりたい。  そうすれば、私は私のままでいられる。    人間は不安定な生き物だから、『機嫌』という名の気の迷いで子供に対する態度は豹変する。  私が隠されている部屋は小さな窓が1つあって、その窓は磨りガラスがはまっていた。  そこからは母屋の明かりが薄っすらと見える。  明かりが大きいときは、何故か家中の人間が上機嫌でいる。  逆に明かりが小さいときや見えないときは、家中の人間が怒ったり焦ったり泣いたりしている。  その様子が月の満ち欠けに似ている気がして、私は毎日窓から明かりを確認する。  ある時、何日も暗闇が続いた。  それとなく世話係に聞いてみたものの、決して教えてはくれなかった。  家中が静まり返って、それはそれで悪くない。  2ヶ月弱続いたそれは、眩い光とともに終わりを告げた。  その日から月を眺めるだけの生活が終わり、月に為るための生活が始まった。  果たしてそれは、どんな愛によるものだろうか?        
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