壺中の天女

3/8
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
「これ、なんて読むか分かります」 彼女はレシートの裏に文字を書いていく。俺はじっとその様子を見る。 「えっと、こここ……」 俺は言葉を失う。彼女は何個も「子」という文字を書いていた。 「どうですか」 彼女はそう言うと、目をキュッと細めてこちらを見る。 レシートに書かれたのは、12個の「子」だった。俺はしばらく考えるが、どう読むかなんてさっぱり分からなかった。 「だめだ。全く思いつかない」 俺が頭を抱えていると、彼女はクスッと笑う。 「この読み方は、子子子子子子子子子子子子(ねこのここねこししのここじし)です」 「猫の子、えっと、何だって?」 「これは言葉遊びです。『子』という字は、こ、ね、し、じ、という読み方があるので、当て字で、猫の子仔猫(ねこのここねこ)獅子の子仔獅子(ししのここじし)と読めるということです。平安時代の天皇が言ったみたいです」 「へえ、そうなんだ。こんなの知らなきゃ分かんないな」 彼女は、言葉が好きだ。特に古典については詳しく、こうやって俺の知らない言葉を教えてくれることが多々ある。 おそらく俺とは真反対の人間なのだろう、いつもそう思う。休日も動画配信ばかり見ている俺は、本なんて読むことはほとんどないし、ましてや古典には全く興味は持てない。 きっと恋人同士なら、この価値観の違いは致命的かもしれない。しかし、こういう関係だからこそ、他人事のように彼女の古典の知識について聞くことができているのだろう。 俺達は食事を終え、喫茶店を出る。目の前の通りには人はおらず、閑散としている。 「それではまた来週」 彼女が小さく頭を下げる。 「はい。また来週」 俺も同じようにお辞儀をする。 俺と彼女は使う路線が違うので、いつもここで別れるのだ。 彼女はすたすたと、高架沿いの道を歩いていく。俺はその姿をチラリと見て、反対の方向へと進む。 少し見上げると、高いビルの上には白い半月があった。まるで空を漂う白い繭みたいな月。俺はぼんやりとその月を見ながら駅までの道を歩いていった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!