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改札のすぐ横に、彼女がいた。腰の高さほどの大きなスーツケースが横にある。彼女はいつもと違い、眼鏡をかけ、髪を後ろでくぐっていた。
「葵さん」
俺が声をかけると、彼女の顔がこちらを向く。
「おはようございます。水原さん」
彼女が小さく頭を下げる。
「すみません。お忙しいのに」
「いえ、大丈夫です」
彼女と俺は、しばらく見つめあう。感情が今にもあふれ出そうだった。
「葵さんに、言いたいことがあるんです」
「はい」
彼女は何も言わず、じっとこちらを見ていた。
彼女は、確かに地味な見た目だ。しかし、上品で、知的で、穏やかで、一緒にいてこちらを安心させる、素敵な女性だ。好きになってはいけないと、心の中でその感情を抑えていた。恋をすれば傷つくだけだ、熱くなれば後に苦しむだけだ、そう自分に言い聞かせていた。しかし、今、心からあふれるその感情を抑えることはできなかった。
「葵さん、あの」
俺は唾を飲み込む。彼女はこちらを見つめている。その視線は強く、何かを訴えているようだった。
彼女は、誰よりも近い場所にいた。俺の腕の中にいた。その時は、そんなに大事な存在だと気付かなかった。遠くに行くことになり、初めて分かった。彼女の体温も、匂いも、息遣いも、全て知っている。それなのに、彼女は俺の元から離れる。なぜここまで気づかなかったのだろうか。彼女のことが、ずっと好きだった。しかし、自分の気持ちに素直になるのは、もう遅かった。
俺は一つ深呼吸をして、口を開く。
「向こうに行っても、頑張ってください。お見合いが上手くいくことを願っています」
二人の間に、しばらく沈黙が続く。やがて、彼女はにこりと優しく微笑む。
「ありがとうございます。水原さんも、お元気で」
彼女はスーツケースを引きずり、改札を通る。そして、ゆっくりと構内を進んでいく。その姿はどんどん小さくなっていく。彼女はエスカレーターの手前で、こちらを振り返る。こちらに向かって小さく手を振ってきたので、俺も手を振り返した。
彼女はエスカレーターで駅のホームへと上っていく。その姿は、すぐに見えなくなった。俺は改札の前でぼんやりと立ち、彼女が消えたあたりをじっと見ていた。
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