幼い頃の体験

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幼い頃の体験

 眼鏡を博美に取られた哲人は暫し身じろぎもせずに宙を見つめ、泣きじゃくる幼い哲人を優しく抱き締める祖母が、自分の鼈甲丸眼鏡を外して哲人の顔にかけるシーンを思い浮かべた。 「もう、怖がらなくていいのよ。お父さんは哲人に死の世界を見せてあげたかったんだと思う……」  父は文学と思想に溺れて鬱病になり、夜明け前に幼い哲人を連れてドライブに出かけ、朝焼けの横浜ベイブリッジから飛び降り自殺をした。その時、父は哲人の手を握って「一緒にジャンプするか?」と微笑んだが、哲人は首を振って尻込みした。 「そうか……」と父は少し俯いて哲人の手を離し、一人で柵を越えてダイブしたのである。 「おばあちゃん。僕、お父さんと一緒に行かなくて良かったのかな?」 「もちろんだよ。いい、おばあちゃんの眼鏡は幽霊が見えるんだ。ほら、あそこを見てごらん」  祖母は窓ガラスに映る陽だまりを指差し、哲人に死の世界とは見えない扉で繋がっているが、許された者しか入れないと諭した。 「一生懸命、こっちで頑張って生きていると、自然とその扉は開くんだ。だから、決して自分で()けてはいけないの」 「お、おばあちゃん。なんか見えるよ……」
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