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電車を降りた瞬間、懐かしさを感じた。
私がこの町に住んでいた10年前から時をとめたような色あせたベンチが目に入る。小さな女の子が足をぶらぶらさせて座っている。ぐるりと見渡してみたけれど、女の子の他にはホームには私とお兄ちゃんの姿しかみえなくて、女の子に声をかけるべきかな、と思った。とたん、女の子がぱっと顔を輝かせて、「おにいちゃんみっけ!」。その声が向けられた方を振り返ると、自動販売機の後ろから「みつかったかぁ」と小学校中学年くらいの男の子が顔を出す。おにいちゃんだ、と思った。一歩近づくと、いつの間にかやってきていた電車がぷしゅーっと軽い音をたてて扉を開く。ぱらぱらと降りてきた乗客たちが改札口を通り抜け、電車が去って行く頃には、ホームにはやっぱり私とお兄ちゃんしか残っていなかった。他には誰もいなかった。
「あんまり変わってないな」
お兄ちゃんは改札の向こうに見える駅前広場に目を細める。電車を1回乗り継いで1時間もかからずに着くこの街に、私はずいぶんと長い間来ていない、というよりここから引っ越してから初めて来た。
「ここからどこ行くの?」
「この先に公園があっただろ? あそこに行くよ」
「あー、あったね」
友達とよく遊んだ。夏祭りにも行った。買ってもらったアイスを公園で食べた。・・・・・・お母さんに。ふいに浮かび上がった情景は今と同じ夏だった。アイスってどんな味だったっけ。長い間食べていなすぎて思い出せなかった。ぼんやりと舌の上に広がるつめたさだけ覚えている。
「で、そこで待ち合わせてる」
一気に現実に引き戻される。
「え? 待ち合わせって?」
質問にはこたえずお兄ちゃんは歩き出す。昼下がりの駅前はしずか。歩いている人すらほとんどいない。とまったタクシーの運転手さんも眠っているよう見えた。空は澄んでいて、ポカリと浮いた雲の白が映えている。何にも悪いことなんて起きないんだよ、と街が私を包み込もうとしているように感じた。公園で、ひと組の親子が砂遊びをしていた。ベンチには私より少し年上に見えるくらいの、20台前半に見える女の人。奥のブランコでは大学生くらいの女の子達がはしゃいでいた。
ふしぎな光景だった。
小さな頃に遊んだ場所に今のお兄ちゃんが立つと、記憶の中の距離感と違いがありすぎてくらくらする。
お兄ちゃんは足をとめることなく公園の中に入っていく。記憶の中の子どものお兄ちゃんと目の前を歩くお兄ちゃんがうまくすりあわせられない。どこか世界が気持ち悪い。知らなくても伝わってくるものがある。お兄ちゃんの靴が砂利をはじいてシャリシャリとなる。小石が弾き飛ばされる。靴の動きがとまる。見知らぬ影がゆらっと私たちに向かって動く。
「ひさしぶり」
そう笑って手をあげたのは、ベンチに座っていた女のひと。肩を超えた長さの黒髪はとても綺麗。眉の上でぱつんと切りそろえられた前髪は彼女の切れ長の目によく似合っている。私の全然知らない人。私はあたまの中で色んなものをつなげ合わそうとした、けどやめた。必死でかけらを探そうとしたって無駄なんだ。
「ひさしぶり」
お兄ちゃんは平然とそう言った。女の人はにっこりと笑う。そして、お兄ちゃんを観察するように眺めまわしてから、私に視線を移す。なつかしい、とか愛おしい、とか。そういうものを見るには当てはまらない目つき。少し首をかしげてから問いかける。
「あかり?」
お兄ちゃんが私の代わりにうなずくと、女の人は少しだけうれしそうに笑った。
「へー。大きくなるもんだね」
ぎゅっと、胸の内の、皮膚が剥がれ落ちるような息苦しさを感じた。お兄ちゃんは私の肩を軽くなでながら返事をする。
「うん。母さん。久しぶりだね。母さんもちょっと変わったかな?」
「わかる?」
女の人は立ち上がって胸の前で手をあわせてかわいらしく微笑んだ。どう見てもさほど私と年の違わないように見えるこの人は、『お母さん』だった人だ。
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