朝顔とパンケーキ

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10年前。真珠病にかかり治療を受けた。真珠病患者だけが保険適応となるゲノム改変治療。母の症状は進行していた。顔や目の色にまで症状が出てきていた。だから、全身治療の適応となった。人のゲノムには、姿形を規定し得る情報がつまっている。変形した皮膚の色や形を戻すためには、突然変異を起こしたゲノム情報を書き換える。そのとき、ある程度は患者の意見を聞いてくれる。特に10年前はまだ症例が少なくて、先生達も積極的に広範囲の治療を進めたかったのだろう。お父さんも先生も、母をはげますように治療を推奨した。はじめは「顔をいじるなんて」と悩んでいた母は、お父さんたちの言葉につられるように、治療についてネットで調べだした。興味が湧いたみたいだった  はじめは大丈夫だったのだ。  一度目のゲノム改変治療は、母は変色した皮膚と目の治療だけを選んだ。いいの? と聞いた私に母は笑った。別に美人になったりしなくたっていいのよ、お母さんはお母さんなんだから。治療がおわって病室で眠る母。治療を促進させるための特殊な包帯を巻かれたままだった。1週間後、包帯がはずれた。お母さん! とはしゃいで私は駆け寄った。病気になる前の母がいた。母はまだ眠っていた。お母さんが起きるまで側にいることにした。真っ白な病室に窓から陽射しが注ぎこみ、光を閉じ込めたような木漏れ日が母の上で揺れていた。母が目を覚ます瞬間は私にはわかっていた。だから、いちばん透き通った午後の光が部屋いっぱいに広がって、母が目をあけた瞬間に、お母さん、と飛びついた。母はじっと私を見た。はじめまして、と挨拶するようなよそよそしい目で私に笑いかけた。  お父さんは毎日毎日お母さんと撮った写真やビデオを山ほど持って病院を訪れて、お母さんが好きだったものを食べながら、お母さんが好きだった話しをした。はじめのころは私とお兄ちゃんを一緒に連れて行ってくれたけど、だんだんと留守番を頼まれるようになり、ある日、母は悪びれる様子もなくお父さん、お兄ちゃん、私の前で言った。  新しい人生を生きようと思う。  記憶にはあるけど、感情的には見知らぬ人間である私たちを母は家族としてみることをやめた。わずかに残っていた皮膚症状を理由に二度目のゲノム改変治療を受けた。その治療の二週間後には、母は目の大きさも顔の形もすっかりと変化していた。  三回目の治療の後は来るなと言われた。  お父さんは写真とホームビデオをすべて消してしまった。  私もお兄ちゃんもとめられなかった。知っていたから。どれだけお父さんがお母さんのことを好きだったのか。なくしてしまったものを埋めるのは私たちでは無理なんだろうなって。全員そろっていた日々の記憶とその喜びはどんなに時間がたっても色あせなくて、残酷だ。お父さんが新しい生活を始めた日、雨は音をたててふっていた。もっと外の奥を聞きたくて窓をあけたかったけど、窓はとても堅く閉じていて私には開けられなかった。雨はずっとやまなかった。 「あかり。悪いんだけど5分だけ母さんとふたりにしてもらってもいいかな?」  お兄ちゃんが私の耳元でささやいた。 「ならおすすめのカフェあるよ」  母が私に教えてくれたお店はガラス張りの外観で、店の真ん中に小さな噴水があった。たいした音もたてずに流れる水は窓から入ってくる陽射しを店の奥まで乱反射させている。お母さんが好きだった安くて賑やかなフードコートとは大違い。  だけど眺めるものがあってよかった。自分の感情が入り乱れすぎて整理することがうまくできていない。お兄ちゃんが声をかけてくれるまで、私は注文もせずにその小さな噴水を眺め続けていた。 「どう? いいお店でしょ?」  母は私の方を見てはいるもののわずかに視線をずらしたままで言った。口調は明るさを保っているけれど、どことなく後ろめたさを覚えているようだった。 「お兄ちゃん、ひとりで全部持てるかしら」  私が何もこたえる前に母は兄が並んでいるレジを見て腰を浮かしかける。 「大丈夫です」  自分の声が驚くほどいらだっていて正直驚いた。もうこの人と私の間には何も関係はないのだとさっぱりさせているつもりではあった。終わったものだと思い込もうとしていたのに。  母はひどく静かに座り直した。 「お兄ちゃんは、いつ治療するって?」 「わかりません」 「そっか」  母は目を細めて噴水に目をやる。 「綺麗ね」  黙ったままの私に母は思わずと言った感じに笑みをもらす。ふわっともれた笑顔の目はとても細くて目尻が下がっていて、そっくりだった。お母さんにそっくりだった。 「あかり」  声。私の名前を呼ぶその声は変わらないのだ。胸の奥から熱いものがせりあがってくる。あわてて飲み込む。この十年飲み込み続けたのだから全然余裕。なはずなのに、口の中にじゃりじゃりしたものが残るような違和感が広がる。返事ができない。 「さっきね、お兄ちゃんとふたりで話して思った。お兄ちゃんは、大丈夫だよ」  母はこんな優しい声で話すはずじゃなかった。もっとひどい人のはずだった。そうであるべきなのに。 「私とは違うから。大丈夫だよ」  どうしてこんな声を出すんだろう。 「なつかしいなー。10年前か。私が目が覚ましてすぐ、あかり、私の顔をみてびっくりしたでしょ。だからどんな顔になっているのか心配だったんだけど。すごくきれいに治ってて驚いた。本当に満足してたよ。信じないかもしれないけど」  昼下がりのカフェにふさわしい朗らかな笑いが満ちた空間に、母の声は穏やかにとけこんでいく。きっと私にしか届かない。話題を変えたい。そう思った。 「つらかったのはね」  だけど私と母の間にはなにも共通の話しなんてないから、私の頭は真っ白なまま。進み方も戻り方もわからない。レジに並んでいるお兄ちゃんの後ろ姿は遠い。 「いちばんつらかったのはね」  母は長い髪を指で梳くようにひっぱる。はらはらと母の手からこぼれ落ちていく髪は陽に透けてかがやく。母は梳き終わった毛先を指先でつまみながら、 「みんなが。お父さん、お兄ちゃん、あかりが。私を全然知らない人をみるみたいに見てきたこと」  平然と言われたことの意味が一瞬わからなくてぼんやりする。それからすぐに、10年前に家族がばらばらになったのは、この人のふるまいが原因ではないかという思いがせりあがる。お母さん。心の中で遠い過去によびかけたとたん、がんっ、と私の中に閉じ込めていたものが扉を壊す勢いで走り出し口からほとばしる。 「そっちが最初でしょ! お母さんに会いたくてずっと待ってたのに、あんな他人行儀に微笑まれたら。お父さんだって一生懸命にお母さんを取り戻そうとしてたのに。全然きこうとしなかったのはそっちでしょ?」  母は黙って私を見る。さっき公園で会ったときと同じく、整った顔で嬉しそうに笑っている。そういう風に、見える、笑顔をまっすぐに私に向けている。 「でも、みんな過去の私しかみようとしてくれなかったでしょ?」 「え?」 「新しい私と関係を作ろうとはしてくれなかった」  だってそれは、と言いかけて言葉がつまる。 「あかり」  さっき私の名前を呼んだ声とわずかに違う。穏やかだけど、無機質とも言える声音だった。 「よだかの星っていう本覚えてる? お母さんが入院中にあかりが持ってきてくれた本」  覚えている。  お母さんが大好きだった本だから。そして私はあの本が嫌いになった。お母さんはあの本のせいで美醜にとらわれたのだ。美しくないよだかのようになりたくなくて、私たちの元を去って行った。 「よだかはね、みんなからお前は<よだか>だって決めつけられるでしょ?」 「決めつけられる?」  よだかはよだかだ。いじめられたというのならわかるけど、<よだか>と決めつけられると母が言う意味がわからない。同じ笑顔のまま母は私を見つめ続ける。 「感情だけが消えるのは不思議だよ。記憶はあるのに、どうしてもそこにあったはずの感情は思い出せなくて、まるで映画の中の話しを聞いているみたいだった。そんなに思い入れのない映画ね。自分の中から全部なくなってしまったことについてお父さんがどれだけ話しをしてくれても、そこにいるのが自分だと思えなくて、どんどん遠ざかっていって、あかりたち3人がうらやましくてしょうがなかった。さびしくてしょうがなかった。みんな、私を<お母さん>として見ていて、誰も私と新しい関係を築こうとはしてくれなかった。だから、本当に仕方なかった」  その声には責めるとか後悔のようなものは感じられなくてただそこにある事実を述べているというものだった。 「だって、」  それ以上続けられなかった。消え去ったものを取り戻す努力をして何が悪いのだろう。そうは思うのに、私の気持ちに違うものが混じりだしていた。なによりもすがりつくような自分の声を聞いていたくなかった。 「わかってる。仕方ないよ」  母がついっと視線を窓の外に流す。きっと空はさきほどと変わらず青いのだろうけど、私からはよく見えなくて眩しそうに目を細めるのは母だけ。 「仕方ないのは私も同じ。失ったものを装い続けることはできなかった。私は新しい人生を新しい自分で歩いて行くことにした」  私と母のいるあたちの空気だけしんと息をひそめたように感じられた。全部、母のせい、と結論づけていられたら、とても楽だったのに。 「あ! お兄ちゃん、ありがとう。あかり、食べよう」  白いお皿は3つ。母のは色とりどりの野菜とスコーン。お兄ちゃんのはシンプルなトーストと卵。私の前に置かれたのはいつも食べているのと全く同じメーカのスティックがのっている。明るすぎるこの場所で、私は消えてしまいそうな気がした。  それほど長い時間を過ごしたつもりはないのに、帰り道の駅の様子は一変していた。駅前の広場は買い物に向かう人たちが行き交っていて、学校帰りの中高生たちが駅にどんどん吸い込まれていく。来たときとはずいぶんと様子違っていて、同じ駅に立っているとは思えない。心がうまくなじまない。 「あかり」 「ん?」 「治療することにした。ゲノム改変」  お兄ちゃんがそれ以上何か言うのをさえぎるように急にすべりこんできた電車は、思いのほかたくさんの人を下ろした。そして同じくらいの人が乗り込んで、どこかにいるはずのお兄ちゃんの姿はもう見えなかった。
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