朝顔とパンケーキ

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お兄ちゃんが治療を受ける日が決まった。  術式の説明、入院準備の確認、同意書。たくさんのやることたちをお兄ちゃんとふたりでさばいていく。その間もお兄ちゃんの書いた日記はどんどん増えていって、いくつかのノートは床に積まれている。いったいどうしてこんなに言葉にできることがあるんだろう。これまでは、お兄ちゃんは本当にまめだなぁ~、なんて小さなひっかかりすら覚えずに過ごしていたのに。母と会った日からさらに増えている。一方で私はたくさんの言葉が私の中を浮かんだり消えたり横切ったりし続けているのは気づいているけどそれらの言葉の一片ですら私は上手くつかむことができない。上手くつかめないからお兄ちゃんに言いたいこともわからない。  治療前、兄抜きでの最後の家族面談。相手はもちろん緒方先生。緒方先生は私を見て、 「つかれてますね~」  とにこにこと笑った。そりゃ唯一の家族の治療前で、検査やら準備やらあって普通につかれるに決まってるでしょと言いたくなる。だけで少し楽になる。お兄ちゃんだって何故か私に気を遣い続けている中で、緒方先生だけわけわかんないくらいあけっぴろげで自由なまま。ここまで来ると力が抜ける。今の私にとってそれは案外心地良い。中林さんの姿は見えなかった。 「先生はいつも元気ですね」 「いやー・・・・・・それがですねぇ、ちょっと僕も色々ありまして。僕も前田さん、あ、お兄さんの太一さんね、あかりさんの方の前田さんはなくて、太一さんの方の前田さんの治療導入がはじまったら選手交代です。リサちゃんもやめちゃったしまぁいっか~って」 「異動ですか?」  首ですか? ときくのはこらえた。私、えらい。  先生は右足をぽんとたたく。 「じゃーん」  ズボンをめくって見せた。まろやかに鈍く発光するような真珠色に変化した皮膚。足首どころかさらに先まで症状はでている。不躾なほど凝視したまま何も言えない私を気にする様子をみせず緒方先生はつづける。 「ほら、以前写真を見せたじゃないですかぁ。脳まで進行してしまった患者の写真。あれ僕です。いやぁ、お恥ずかしいですね。超絶内側みせちゃって。外側と違って僕の内側ずいぶんときれいでしょ」 「・・・・・・なんでこんなぎりぎりまで」 「ですねー。だから考える時間は3日って言ったじゃないですか。それ以上待つと進行するリスクが高かったんですよねぇ。僕が。引き延ばした理由は簡単。僕の進行がかなり遅い原因をつきとめたかった。症状進展を押さえることができればゲノム改変なんてせずにすむ。僕は今でも思ってはいますよ。そんなことし始めたら人はおわるって。でもねぇ~。僕の頭脳はけっこう世界の宝なんですよ。ふわぁ。久しぶりに喋ったらなんか疲れますね」   診療データを呼び起こしたスクリーンに視線を移して、緒方先生は眠たそうに言う。じんわり目尻に涙がたまるほど大きな欠伸までつける。 「そうそう。前田さん、あ、お兄さんじゃなくてあかりさんの方の前田さんです。で、あかりさんの方の前田さんの検査結果がこちらなんですけど。この日ちょっと体調悪くてダメだったんですよね」  先生は本当にあっけらかんとして、適当で、そして不器用だ。 「緒方先生」 「じゃ、さっそく。あかりさんの方の前田さんのゲノム解析結果からですね、面白かったです」 「いいんですか?」 「んー?」 「中林さんのこと好きなんですよね?」  緒方先生は中林さんと過ごした時間をずっと大切にしていた。緒方先生の研究結果から、意識にあがる頻度が高ければ高いほどその記憶が失われるのがわかっているのに。笑ってなんて言われないはずだ。私に「つかれてますね~」なんて言っている場合じゃない。緒方先生は全力で中林さんにぶつかって、会いたくて仕方のない「りさちゃん」を引っ張り出すべきだ。私とお母さんの関係は間に合わなかった。でも、緒方先生はまだ間に合うんじゃないだろうか。大好きで大好きで隠すこともできない気持ちを全部ぶつけたら、動くものはあるんじゃないだろうか。  私はまだそう信じたい。  緒方先生は黙ったままだ。 「先生の気持ちは絶対伝わるよ。秘伝の技があるんでしょ? 私に教えてくれるんでしょ?」  声が震え出す。わかってる、勝手に先生に期待しているだけ。わかっているけど押さえられない。涙よりも先に鼻水がずるずる落ちてきて、私のぶさいくさは史上最強クラスかもしれないと頭をよぎるけど、そんなことではこの次ぎ次ぎに押し寄せてきて収まらない苛立ちをさばけない。 「意味分かんない。すがりついて何が悪いの? お母さんのことみんな好きだったんだからさぁ。お兄ちゃんも意味分かんない。なんでお母さんとあってすぐに治療を受けるって決めたわけ? お母さんみたいに生きたってことじゃん。新しい気持ちで晴れ晴れしたいってことだよ」  とまらないとまらないとまらない。だけど、息が続かなくてひと息ついた。  ふわっと、やわらかいものが頬にあてられた。ふわふわのティッシュペーパー。 「特別に僕のセレブなティッシュをあげます」  緒方先生はおそるおそるというように私の頭をぽんとなでる。困らせてしまったと思ったけど、私をのぞきこむ細い目は柔らかに弧を描いて笑っている。 「まあ~、太一くんが何を考えているのかはわからないけど」  それから先生は机とは反対側の壁際に置かれたキャビネに向かって、みゅーんと手を伸ばす。手だけでは届かなくて身体全体をつかいだす。まだ届かなくてフーフー言い出す。横着だな、と思ったけど立った方が明らかに楽そう。筋トレなのかもしれない。ようやくキャビネの扉をあけると、Padをとりだした。 「特別にみせてあげます」  先生がロックを解除した画面に映し出されたのは、中林さんだった。 「・・・・・・うわぁ。隠し撮り?」 「ちっが~う。撮らしてももらいましたよ、土下座して」  緒方先生は中林さんの写真をうっとりと眺める。 「僕は新しく彼女に恋をすることに決めたんです」 「新しく?」 「はい」  新しくという意味をうまくつかめなくて首をかしげた私に緒方先生は熱っぽく教えてくれる。 「僕は毎日リサちゃんの良いところを見つけることができるんです。今日は、リサちゃんがPCの指紋認証うまくいかなくてちょっとおろおろしていたところが素敵だなと思いました。その前は、患者さんが忘れていったぬいぐるみのウサギの耳をぴんと立つように何度ものばしたりひっぱたりしていたのが可愛かったです。本当に、毎日、僕はそうやって今日のリサちゃんを見つけることができるんです。彼女がここをやめても大丈夫です。社交辞令で連絡先もらいましたし、こうして写真をいっぱい撮っておいた。あはは。気持ち悪いでしょ?」  緒方先生はにこにこと笑い続けている。リサちゃん。暖かく呼びかけるその声は潤み出す。 「なんで好きなのか理由なんてないんですよ。もうね、僕もわからない。とにかく好きなんです。はじめはね、僕に優しいからリサちゃんのことを好きなのかもしれないって思ったことがあります。でもね、リサちゃんがひややかな目で僕のことを見てきても、僕はちっとも彼女のことを嫌いにならないんです。ええ、好きなんです。きっと一生好きなんです。どんな出会い方をしても消えないんです」  緒方先生の瞳は充血していき、溢れそうな水分が目を覆う。あ、こぼれる。その瞬間、先生はぱっと上を向いてずびびーっと思いっきり鼻をすすった。顔を私の方にもどして照れくさそうに笑った。うまくやりすごしたようだった。 「だから、彼女に負担をかけないためにもいっそ、はじめましてからはじめようと思うんです」  彼女に新しい僕をはじめから知ってもらうのです。  それは初めてきくような、緒方先生の静かな声だった。 「まあ、あかりさんの方の前田さんにはこのやり方勧めませんけどね。家族間ではなかなか難しい。あぁ~、良かった。僕、まだリサちゃんと完全他人のままで。出会いなおしが楽しみです。新しい気持ちを僕はきっちろ育てていきます。だから、すみませんが、太一さんの治療は他の先生にバトンタッチです。どんな地面でも咲かせて見せますよ、僕の愛を。ふふふ」  緒方先生の愛の暑くるしさはどこまでも自分本位で明るくて、ちょっとだけ中林さんとうまくいったらいいなと思ってあげた。病院を出たところに、ひまわりが揺れていた。ゆうぐれの光の中でそよいでいた。ベランダの朝顔を思い出す。水をあげ忘れている。特別な土でもない。でも、そこに花が咲くかもしれないと信じられるだけで、ずいぶんと見える景色がかわってくる。いつか遠い時間の向こうにいる私は、今こうしている時間の記憶に、どんな感情をのせているのだろう。
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