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お兄ちゃんが入院する日の朝。いつもの通りに朝はやってきて私とお兄ちゃんはいつもの通りに朝の支度をする。
リビングの窓を開け、流れ込む風にふくらむカーテンをおさえ、朝顔に水をやる。
「あ。お兄ちゃん来てみて」
「なに? お」
朝顔の蔓にいくつか種がついていた。指でそっとつまむと、かさり、と乾いた音とともに種がこぼれおちた。
「植えたら来年も咲くかな?」
「咲くだろ。そのうち植えよう。とりあえず朝ご飯」
私とお兄ちゃんはきっと何かをなくす。
どれだけ強く信じていても守り通すことはきっと無理で、頑張れば頑張るほど見失ってしまう。だけど、失いそうになっても未来の小さな約束は、どこかでつながりを信じることができる気がした。
私の朝ご飯はいつも通り。お兄ちゃんもめずらしく自分の体質にあわせたスティックをかじる。ふと、ゲノム改変治療後には、きっとお兄ちゃんのスティックの含有物もかわってしまうのだと気づいた。冷蔵庫にまだいくつかある青いパッケージのスティックはどこかに行ってしまうことになる。
お兄ちゃんは帰ってきたら何を食べたら良いんだろう。
「そうだ。あかり、悪いんだけどあの日記をつめるの手伝ってくれない? 病院に持って行く」
「あれ全部?」
「うーん。全部じゃなくてもいいんだけど」
珍しくお兄ちゃんが悩む。私はスティックをゆっくりとかじる。舌の上で転がしても新しい驚きはない味わい。
「とりあえずここ最近のにしておこうかな。うまくかけなくて何度も繰り返してるからきっと俺以外にはわけのわからないメモなんだけど」
緒方先生に頼まれた消えていく感情の変化を追うための準備だ。私はあまり考えたくなくて、力なくうなずくしかできなかった。どうしても治療後の副作用についてはお兄ちゃんと向き合って話すことができないままだった。いくら理解しようとしても、どうしても寂しくなる。話せばもっと私にだけ感情が積み重なっていき、あとで寂しくなる。
「この前、母さんにひとつだけきいたんだ」
お兄ちゃんは私をみつめて言った。
「今でも、本は、好きかって」
お兄ちゃんは手に持っていたスティックを置いて、真珠色に変わりつつある右手の薬指に目をやった。
「好きだって。だから」
お兄ちゃんは胸の中で言葉を探すようにだまる。息を吐く吸う。
そして一気に話し出した。
「母さん本が好きで、入院していたときもあかりが本を持って行っただろ。よだかの星。退院する前日に、こっそり病院にいったんだ。もう一度母さんと話してみたくて。母さんはいなくて、でも、あの本が枕元に置いてあった。開いたらさ、紙の上にぽつぽつとしずくが落ちたような跡があった」
お兄ちゃんはずっと心の中にせき止めていた記憶をとかしていく。
「それから家に帰って母さんの本をひらいたら、折れ目があったり、染みがあったり、書き込みがあったり、そこには母さんがいるなって思ったんだ。母さんが家を出て行くとき、家にあるものの中で唯一持って行きたがったのは本だけだったんだけど、俺が全部ほしいって言った。母さんに渡していたら、もしかしたらさ、砂漠の砂の中から石を拾い上げるみたいに、母さんは小さな感情を見つけることができていたのかもしれないんだけど」
私は窓際に置かれた本棚に目をやる。一つ一つの本は色も厚さも背丈も全部違う。背表紙のかすかな丸みを目でなぞる。夢で見た白い紙切れは、お兄ちゃんが痛くても苦しくても抱えつづけていた言葉のきしみだったのかもしれない。お兄ちゃんは深く息を吸う。
「俺が、その可能性を消したんだ」
お兄ちゃんの胸の奥にずっとすんでいた痛みがお兄ちゃんと私の間に流れ出す。ごめん、とすすり泣くようにつぶやかれた小さな声を私はそっと包む。
「だから、母さんが本を好きなままなら、治療がおわった俺もきっと本が好きなままだと思う。小説の中の、まったくしらない人の記憶や感情だって自分のもののように抱えることができるのと同じように、日記も物語として読めるはずだと思う。だから、この10年全部書いてきた。自分の気持ちを拾い上げることはできていると思う。うまく言ったら母さんも」
いつもよりずっと長く喋ったお兄ちゃんはもう少しだけ言葉を継ぎ足したそうではあったけど、私をみつめて口を閉じた。お兄ちゃんの顔を眺めながら、私はほどけだした古い記憶が広がっていくのを感じていた。粉だらけのお兄ちゃんをみて、お父さんとお母さんは笑っている。そんな家族みんなをみて、私はおかしくて楽しくて仕方がなかった。遠くでも近くでもない場所で皆の笑い声がきこえる。
「お兄ちゃん。帰ってきたらパンケーキを作ってあげるよ」
全然知らない人と一緒でも笑いたくなるくらいに、まずは楽しむ。
病室の窓が開いている。窓の側にコップに浮かぶ朝顔の花。
お兄ちゃんはまだ眠っている。治療はおわり、後は目を覚ますのを待つだけだ。
私はお兄ちゃんの日記を開き、右手の薬指で文字をなぞる。指に伝わる感覚。筆跡に残る温度のようなもの。お兄ちゃんが書いていた時間のこと。お兄ちゃんの言葉が私の中に響き出す。目を閉じて、再び明けて空を眺める。重なり合った雲に映える柔らかな光。橙、桃、薄紫。刻々と色を変え、黄金色がこぼれ落ちた。そして、夜を迎えに行くように光が遠ざかる。ぎゅっと目を強く閉じてから群青色に変わった空をみつめる。瞬きはできるだけがまん。こうするとお兄ちゃんの言葉が夜空に翻る。ように見える。見え方はそれぞれ違う。私も体調によっては頭の中でささやく声として感じることもある。というようなことは、お兄ちゃんの日記に書かれていた言葉だった。
お兄ちゃんの日記はまだ私に色んなものの見方を教えてくれる。感情が変わったら世界は別のものになる。お兄ちゃんはそう言っていた。じゃあ、ここ数日の私が過ごしているのはお兄ちゃんと私の感情がまじりあった新しい世界なのだろう。
緒方先生も新しく中林さんに恋をしている頃だろうか。
中林さんはもうこの病院をやめてしまったけど、お兄ちゃんのお見舞いに昨日来てくれた。一通り、緒方先生の珍妙さについてふたりで盛り上がった後、中林さんは言った。
「あんなにずっと好きです好きでって言ってくせに、いくらこの疾患の専門医だからってあっさりと過去をなかったことにするなんて。そのときは正直、むかついた」
「でも絶対に中林さんのこと好きになるから問題ないって言ってましたよ」
「あの人、治療の前から練習だって言って、はじめまして、って挨拶しにきたんだよ。ほっんと変人」
そうつぶやいた中林さんの目はやわらかに弧をえがいていた。
はじめましてか。私も練習しておこうかなと思った。
お兄ちゃんは私が生まれた瞬間から、ずっとお兄ちゃんでいてくれたから、はじめまして、って言ったことがない。いいじゃん。はじめまして。
まずは新しい約束をしていけばいい。
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