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それはもうずいぶん遠い夏で、すっかり夢にもみないくらいだった。
思い出したきっかけのはじまりは、透明な夏の朝にお兄ちゃんの爪がかけたことだった。
夏のさいしょの朝顔のつぼみに気づいてお兄ちゃんを呼んだ。
「お兄ちゃん、朝顔!明日には咲きそうだよ」
何年も前に植えた朝顔を芽吹かせることができてつぼみがつくなんて期待もしていなかった。私はささくれた指をそっとつぼみに押し当てた。しっとりと冷たさは、夏を知らない。
のそのそとベランダに顔を出したお兄ちゃんは、ほとんど口を動かさず「おぉ」。声をあげてはしゃぐことはめったにないお兄ちゃんだ。とにかく晴れた日で、桃色のつぼみは私があげたばかりの水を纏って輝いていた。お兄ちゃんは空に目をやる。上空をよこぎっていく配送ドローンの機体がにぶく銀色に光る。お兄ちゃんはまぶしそうに目を細めて右手で眉の上にひさしを作った。その右手の薬指の爪端がまろやかにかがやく。真珠のような淡い白。
「お兄ちゃん、爪」
私がそっと触れたら、かけた。
落ちた爪の端切れは朝顔のプランターの土にうもれてしまいどこかに行ってしまった。拾いたいと思った。だけど、探そうとした私をお兄ちゃんはとめた。首をよこにふり、お兄ちゃんは再び空をみあげた。私はお兄ちゃんの右手をぼうっと眺めながら考えていた。
次はお兄ちゃんの番だ。
お兄ちゃんと私はいったい何を失うんだろうかと。
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